モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

リョナって何?

 ありがたいことに、職場に俺のことを慕う後輩がいて、そいつもどうやら絵描きらしく、時々話すことがある。それで、最終的には「今度絵見せてください」とお願いされ、断るというのが一連の様式である。 

 これは変に気取っているとか、はずかしいからとか、そんなことではない。見せたくないのも事実だが、本質は異なり、俺は一年前から既にエロ絵しか描いてないため、見せたくても見せられないのだ。しかも単にエロいだけではなく、リョナい絵を描いてしまっているのだ。そんなもの見せられるわけがない!

 なぜそんな絵を描き続けてしまっていたか。俺の中で絵を描く理由が変わってしまったからだ。https://mopezomd.hatenablog.com/entry/2022/07/06/124455

 実は記事にもしているが、俺の絵は殆ど実感というところに重きを置いてしまっている。描いていて楽しい。見ていて楽しい。心に来る絵を描きたい。しかし、それが芸術の本質ではないかうんぬんかんぬん。然して、俺は一年もエロ絵を描き続けていたのだった。

 女体の美しさは語るまでもなかろう。だがリョナとは?リョナって何?わざわざ何?というところで、ふと思い返してみれば、この感性を言語化したことはなかった。それは、単に倒錯をひけらかすのを恐れていただけに違いないが、今ではもうどうでもいいし、実はリョナという趣味に迷いが生じているため、今一度認識しなくてはならないと思い、文章に起こしている。

 リョナについて、実はよく知らない。猟奇とオナニーを掛け合わせた造語だということしか知らない。それもあとから知ったことで、こうした言葉に触れたのは、かつての熱心なYouTube探訪が初めてだった。

 言葉を知る以前から、そういう領域に対する感性はあった。プリキュアとかワンピースとか。一番悪いのはフェアリーテイルだったけれど、それもまだ初めてではない。俺の原点はジャンヌ・ダルクの伝記だった。ご存知、小学校の図書室にはまんがでわかる伝記が置かれている。かねてより陰キャだった俺は、クラスの皆が駆け足でグラウンドへ向かうのを尻目に図書室へ走っていた。活字を読むためではない。小学生のときに活字を読んだことなど一度もない気がする。図書室に着いてはただまんがを読み漁っており、かいけつゾロリが底を尽きたら、今度は伝記に手を出すなどして、昼休みを凌いでいた。それが俺とリョナの接点。リョナという領域と俺の変態的直線の交点にはジャンヌ・ダルクがいた。

 逸話か事実か知らないけれど、その本にはジャンヌ・ダルクが監禁暴行され“かけ”る描写があった。オルレアンの乙女として戦役に駆られるなかで、ジャンヌは敵の手に落ちてしまう。俘虜となったジャンヌは、兵士としての誇りである男装を纏っていたが、投獄を機に女物の服を着せられる。その姿の可憐なること、戦場では勇ましく気高い旗手なれど、やはり若く一切の武を纏わぬ姿は可憐の一言に尽き、ましてや拘禁に付されていれば尚更、そのしおらしさは形容し難かったであろう。敵国の兵士は真夜中に牢屋へ忍び込み、ジャンヌに手を掛けようとするが、彼女が敵陣で気を緩めることなど有り得ず、返り討ちに遭うという、逸話……逸話……史実……。

 ともあれ、感覚として知るそれに、あとから言語が付与された。小学校低学年から既に変態であり、時代をフェアリーテイルの多様なリョナと共に歩み、変態のまま中学生になったとき、家に導入されたタブレット端末で変態を加速させていた。

 フェアリーテイルは録画して見ていたのだが、容量に入り切らない分は消すしかなく、消した回を見たいと思ってもどうすることもできない。その歯痒さに耐えかね、YouTubeフェアリーテイルとか適当な言葉で検索していた。そこで初めてリョナという言葉を知った。

 リョナという言葉の占める領域は広い。ゆえに一般にリョナと言っても程度がある。軽リョナ、リョナ、グロ。これらのなかでどこまでイケるか。あるいは行かないのか。行かないのが一番いい。でもいっちゃうのがリョナラーのキモイところ。

 リョナって何だろうね?俺がこう、ガツッてなるのはどこなんだろうね。さっき絵を描いていて「これはガツってくるだろ」という構図が、全く来なかった。今すげー虚しい。絵を描いてる時間の大半は何枚も何枚もラフを描くことに使ってるわけで、その膨大な思考の末にひとつの構図が組み上がるわけで、考えてみりゃ努力の結晶なんだけど、何故か「ガツッ」とは来なかった。

 俺なりの解釈なのだが、リョナの本質は「かわいそう」である。今やとっ散らかった語義を纏めるのに適切なのはこの言葉をおいて他にない。ジャンヌ・ダルクで言えば自由を奪われてかわいそう。兵士としての誇りを汚されてかわいそう。信仰を否定された挙句火炙りにされてかわいそう。ルーシィはぶん殴られててかわいそう。感覚を強制されててかわいそう。本来、憐れむのが正しいのに、リョナラーはそれで喜んでる。人として間違ってる。道徳が腐敗している。

 人間の本質と、道徳のどちらが先行しているか。こんな性癖はない方がいいと思うのは、俺の悟性的な道徳のため。しかし現実は悦んでいる。これは、別に俺が創始した感性ではない。人類史において、古くから連綿と受け継がれてきた悪しき因習なのである。社会とはそれに打ち克つための仕組みに過ぎない。

 今無意識に高説を垂れてしまっていたが、とにかく、俺は何を持ってかわいそうと思うか、そこが曖昧になった。

 単に拘束するだけではダメか。なら秘部を弄るか。それでも足りないなら暴行を、拷問を、欠損を、死を。人間への共感性が薄れてくると、リョナは意味を失う。死体となり、物となったものに「かわいそう」とは思うまい。絵を描きながらそれを探っている。幸いなことに、絵の中で死ぬ者はいない。生も死もないまったくの白地から、俺は感性を生み出している。

 俺をかわいそうと思わせるためには、そいつが可愛くなくてはダメだ。とんでもないくらい可愛くて、信じられないくらい幸福で、何もかも満たされているような人間が、何らかの理由でそういう境遇に堕ち、途方もない抑圧に晒され、悪意という悪意に犯され、希望の悉くを摘まれる。そういう瞬間、俺はかわいそうだと思う。そういう絵が描きたい。

 この絵は顔がダメだね。