モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

顔がいい女の、形のいいマンコ

 その昔、絶望は自らの生存に向けられていた。今や、それは才能であったり、個性であったりする。腑抜けた時代だ。なぜ我々は死を昇華せねばならなかったのか。自身の理想を高く掲げたいがために、命の価値を繰り上げる毎に、死もまた自ずと繰り上がる。「好きなことしてなきゃ死んでんのと同じ……」「生きててもしょうがないだろ……」そう思えることの尊さを、既に忘れてしまっていた。

 他人の人生観に口を挟むつもりはない。ただ一般に死を恐れ、生に縋る人間の、何を否定しようとも思わない。漫然と、それがあるだけの社会は豊かであると思っている。尊さだとか豊かさだとか、幸福だとか、そういう舌触りのいい言葉も、人生を語るうえでは欠かせないことだと思うし、絶望もまた深みをもたらす材料に他ならない。時に通説を曲げ、斜に構えた死生観を語るのも悪くないだろう。それも含め多様性だと言うのにも、一切の疑義をもたず接することが出来る。ただ一点、ことわるべきことがあるとするなら、それは、命は死を待つものであるという事実と、それにはなんの意味もないという事実を、いつか知らねばならないということだ。

 自殺について人は考える。大抵は罪であるが、詩と哲学において、そう悪くは喩えられていない。無意識な生誕だからこそ、無意識に死するべきか、或いは自分の意思をもって、その生涯にけりを付けるべきか。人間として、生命として、抜本的にどちらが正しい死に方、或いは、生き方なのかは、ひととせの後でさえ、誰にも分からないことなのだ。

 ただ多くは、そんなことを考える暇もなく、自らに与えられた時間を全うする。そして多くは、生命の賛歌に包まれながら死んでいる。言うように、そこに意思がなかったかというと、決してそんなことはない。死ぬ瞬間だけそのことを考えればいいと言うのは、立派な倫理じゃなかろうか。その囁きこそ、彼が黄道を一周するうちにたどり着いた結論であるというのは、彼の死相を見るよりも明らかであろう。そんなあなたに、「あなたは生命の矛盾に気づけたか?」などと問いかけてみたいものだ。

生と死は直感的にアントニムなのに、よくよく性質を見ればシノニムであることに気づく。解さずとも、そうしたアンビバレントには早いうちに気づく。不都合や不合理はあまねくしてある。

なんというか、余人は既に解を得ているのだろうか?街をゆく人間は、戸棚を整理している指は、指示書を見ている目は。彼らの動静が描いた軌跡の上に、そういう死生観が滑っているのを見たことがない。

最近は生きることにぼんやりとしてきたので、生きるのも死ぬのもそう変わりないような気がする。これは重要事ではなくなったという感覚に近しい。また、普遍的な解に辿り着いた状態であると言ってもいい。或いは諦めとさえ言えるのであれば、その絶後を俺に教えてくれ。

俺は今、死んでもいないし生きてもいない。というかこの世界のどこにも、生や死などといったものは存在しない。それは、遠い海の戦争や、井戸底の明滅や、昨晩の八丁目や、図書館横の産婦人科にもない。しかし、ずっとあるような気がする。ずっとあれかしと願っている。そういう知覚以前の感覚において得られる記憶。言語の生まれる以前の野生部。非存在そのもの。

もう死にたいとは思わない。だが、死そのものはあって欲しいと思う。そうでなくては説明できない現象や、実在する感情を仮定するために、それがあって欲しいと思う。そうした営みの発露こそが生きるということであり、死んだということなのだと思う。

この考えが、十余年携えた思考の発展なのか退行なのかは、もはや今の俺の知るところではないと思う。

しかし、存在しないがあって欲しいと思うものってあれだな。

顔がいい女の、形のいいマンコ