モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

芸術性と写実性

万物は創造により生まれる。私の芸術性にも限界が来た。今まで想像により賄っていたすべては飽和し、私の筆跡は写実性を求めるようになった。それは極めて悲しいことであった。最近の、芸術とエロスの結び付きが齎した誤解の所産のような気がして、またどうにも快癒しない病巣のようでもある。この一年、何に気づいたか、そういう絵ばかり描いてきたが故に、私の絵は倒錯に陥ったのだった。

高画質を求める風潮、それこそが正体である。ファンザで物を買うにせよ、SDよりHD、HDより4Kを擁するようになり、私の美観はより正確な人間の諸相を欲するようになった。それがまことにエロへと結び付いている。ポルノハブの画質じゃ物足りないと感じる。無論、オナニーに画質は関係ない。だが心のどこかで始末が付かず、虚しい賢者を折ることになる。そう思って、私はオナニーを高級の手儀にしてやりたいと思ったのかもしれない。ただそういう虚しさを感じて以来、この倒錯は一様に加速したのだった。

思えば、オナニーと創作が密接した生涯だった。創作とはオナニーである。繰り言のように何度も返し、落ちぶれた芸術家を気取っていた。だが実際、そう俯瞰したうえでも、創作とはオナニーなのだ。先も述べた通り、画質なんて関係ない。まったく無画素の空想でさえ出るものは出る。出そうと思えば何だって出る。道具も何も必要じゃない。そこに厖大な空想力さえあれば何だって必要ないのだ。今しがた気付いた。これは、空想の絶滅である。私は持ちうる空想力を枯らしたために、最早リアリティで補充するより他になくなったのだ。空想の中で飽和するエロスを、現実の営みに求めようとしている。そうしてリアルを追求して、芸術性へと置換している。

この融合に失敗すれば、創作家として悉くが終わる。エロに始まりエロへと鎖す芸術には寿命があるらしい。そう覚った7月の正午過ぎである。