モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

心裡留保と狂熱

 10月2日は会社の表彰式だった。9月度に本決算を迎え、我々の営業成績も締まり、日々の労いと賞賛、また今後の展望について大いに語らう会だった。

 俺は会社を辞めようと思っているので、こんな式もうんざりで仮病か何かで飛んでやろうと思っていたのだが、結局、何ら心理的負担のない出席に、逃げの姿勢で望むことはダサいように思え、また、俺の所属する店舗は、会社の中で最優秀賞の業績を納めており、個人成績でも出席条件を満たしていたので、なんだかんだ出席してしまった。

 思えば、こうやってグズグズ理屈を並べ立ててはいるけれど、結局参加しなかった未来はないのだろうと思う。そういう感覚もまた、俺の中では少し後悔の念を帯びているのだった。

 これから辞めようという人間が、そういう式に顔を出すことが何を意味するか、それを知らないわけではない。事情を知るいくつかの面々、上長にも、あからさまな唆しを受けたりもした。それに対し、私は頑なに「迷いは捨ててきました」などと宣って、凌いでいた。

 大切なのは、事実を誤認しないことだ。会社の悪い面、それだけが肝要であり、感情と、合理性と、利益観は、敢えずとも衡量さえしてはならない。とにかく、会社は悪い。俺は辞める。それだけのことを携え、あらゆる不快を飲み込んでいた。

 不快。そうだ。この居心地の悪さこそ最大の証左であり、その限りのおいて、俺の意思は誰の手にも届かぬところにあったに違いなかった。それが覚悟だ。唆しを受けることも、不相応の気色悪さを覚えることも、何もかも想定済みだった。

 一応、体裁のうえで、俺はタダ飯を食いに来ていた。フレンチコースを味わえる機会は滅多にない。滋味深き味わいは、荒涼とした舌の上で、ひたすらに無味であった。

 さて、最優秀店舗賞を受けた店成員は、皆揃って登壇の機会を与えられ、称賛と羨望、或いは悔恨の目を向けられる。我々は登壇した責として、皆これからの標榜を発表しなくてはならない。

 俺は辞める人間だから「辞めます」と言えば良いのだが、それはあんまり独善的だからということで、建前を披露した。これは式のさ中ずっと考えていたことである。登壇し、何を話すか。 場の雰囲気に障らず、それとして己の意思には嘘を付かないような、すべての意味において最良の口上は果たして何か……フレンチの味がしなかったのもこれが理由かもしれない。そして、一切をかなぐり捨てる勇気がなかったための、憐憫めいた感覚の消沈なのかもしれなかった。

 あまり詳しく覚えてないけれど、店のメンバーでここに立てていることに喜びを感じている、とか。新たな年度が始まるから心機一転、気持ちを切り替えて取り組みますだとか、そんなことを言ったように思う。4日経った今でも、きっと全く同じことを言うだろうという確信があり、その点で言えば、やはり自家最良の口上を見出したに違いない。

 しかし、誤算がひとつ生まれた。嘘か誠か、或いは否か。建前というもの、引いては言葉、それ自体の重みを完全に甘く見てしまっていた。完全に建前のつもりで、一切の予断なく、言ってしまえば完全に嘘のつもりだったのに、今となっては、殆ど確かに喜びを感じている──その、店のメンバーで居られたことに……

 壇を降り、自席に着いて、己の言ったことを反芻していた。噛み戻したくもない、毒のような言葉を、何故、何故、何故。疑念も出尽くすほどに問い質した。本当に最良だったのか。敢えずして、辞めますと一言くれる方が、随分とましだったように思う。例え何百という人間に非難されたとしても、自分一人、誓った信念に非難されるよりかはいい。そう思えるなら、何故運命を見誤ったのか。最良は最良である。それは、自己を反故にした詭弁に過ぎず、俺という人間の、俺という意思のなかでは、決して最良などではなかった。

 式を終え、打ち上げへ行った。店のメンバーと酒を飲み、うるさくやった。楽しかった。その、楽しいという感情の行き場はどこにもなかったのに。

 二月前、辞める話を店長としたときを思い出す。その一言一言が、喧騒の端々に聞こえた気がした。繰り言のような正論。俺の意思は揺れていた。

 世の中には、欲しい言葉ばかりをくれる人間がいる。営業歴の長い人間ほど、人の考えを察知し、受け容れ、受け容れたかと思えば、主張を通してくる。クローザーとして全店一位を叩き出す店長は、いうまでもなく対人折衝に長ける。聞いているうちに、こっちの要件はともかく、「ああ辞めて欲しくないんだな」という配慮が大きくなり、自然、いいのかなという気がしてくる。それを振り切れず、二月が経った。

もっと酔えば良かった。不快を呈するために。空間の、感覚の、悟性のすべてを廃絶するために。そして何より、運命を振り切るために。

 間違いだった。こんな会に参加すること自体が。或いは、それを間違いと思うことこそが。究極的には分からなかった。俺が二月に渡り憤悶と湛えてきた意思と、現に抱ける楽しさの、いずれが、なににとって、なんの意味において正当なのか。なんの価値において優先するのか。霧により感覚を断ち、平衡と方向と、それぞれが曖昧になり、俺の将来は、今一度迷いを立てることになった。

 すべては、嘘から出たまことという諺の様に、嘘から発露した意識が、建前を破って自意識に問い掛けている。俺が本当にやりたいことは何だ?生活などといい、泥臭い執着までしてやりたいこととは何だ。プロパティはなんだ。自己利益は、その追求は。この今は、感情は、意思は。果たして何のためにあるのか。

 そのために成し得ることとは何か?

 心裡留保と狂熱。俺は俺を善意の第三者とし、自ら対抗要件を失う。本当に思ったことだ。このメンバーでこういう賞を戴くこと。整理はついていないが、心機一転頑張ること。数字を追う楽しさを知れたことに意味を感じていること。全部、それは正しき表明だ。飲み会の狂熱も含め、俺はそれを愛おしく思っている。

 それを事実と知り、知ったうえで、会社の悪い面を知り、感情と合理性の狭間で揺れている。仕事を辞めている場合ではないのも確かだが、この二十代を後悔しないために生きていたいのだ。

 わがままだろうか。社会はそんなに甘くないだろうか。俺の描いた将来と、現実の齟齬を厭うことは、そんなにも愚かなことだろうか。知っている。何もかもを知ったうえで、俺はどうしようもないことを言っているのだ。

 だから、救われようとも思わない。この先、いかなる選択を採ろうとも、あの熱を忘れられやしない。