モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

アイスボックス

問,君は電車に揺られている。六月雨降れる午後七時の車内は少し冷える。然して、アイスボックスを持つ女子高生が空前と存在し、その友との会話は、遮蔽的なJpopによってすべてを妨げられているとして、君は、その夏の想起される音楽を前に仮定するだろう。何より、余韻が、青春の残香がそうさせる。アイスボックスの中に何があるのか。ただそれは、氷塊というより恐ろしく冷たい。否、氷塊にしては温和に過ぎ、然して薄氷のほどに脆く、即ち、冷酷である。青春の、汗のつぶて、否応にも判然と、ある憧憬という、その遍くを五百ミリリットルの容積に詰め込んでいるのだろうか。君は疲弊する。途方もない夢の前に疲弊する。疲弊した末に空想する。まるで空想以外に術を持たぬ、無機的な生体の残存思念かのごとく、空想する。アイスボックスの中に何が入っているのか。

A,アイスボックス

B,クワガタムシ

 

 

 

Bを選んだあなた・・・・

 

 

 

 

大好きです。

毒花を抱く女について

どういう類の書籍なのかは、読み終えた今でも分かっていないが、現在する読後感を既成概念に当て嵌めれば、その分類はおよそサスペンスに近しい。まず、見えぬ謎があり、猜疑心と共に謎が膨らみ、最後には見えるようになるというのは、サスペンスの常套手段にも思える。そういう意味で、私は本著をサスペンスと題する。

 「長いサスペンスだった」というのは、普段よりサスペンスを読み慣れぬものの稚拙な感想かもしれない。サスペンスとはすべからく長い。なぜなら、謎を醸成するための期間を担保しなくてはならないためだ。長きに失すれば謎は謎として機能せず、物語自体が簡素に付される。そうなっては、謎としての意味も、サスペンスとしての意義も存在しない。そのために、サスペンスは長い。

 私がこれを表現する時に用いたのが「踊り場」である。この階段は、踊り場が多い。上るにせよ下るにせよ踊り場が多く、上下の展開は頻度に乏しい。物語としては、同一のスウェーデンで、同一の“パーフェクト・マッチ”で、同一の謎が、同質のまま終演を迎える。それは、或いは、階段でさえないのかもしれない。緩い勾配か、もっと言えば平坦な道で、主人公は歩いてさえおらず、ただ徐々に周囲が明るくなってゆくというだけの物語なのかもしれない。そうして世界が完全に光を取り戻した時、主人公は初めて歩き出すのだった。きっとそのはずだった。

長いことにかんしては、ただそう表現する他ないある種の迫力があった。漫然と茫漠としていたわけではなく、日々は謎と緊張に包まれ、サラはすべてを猜疑しなくてはならなかった。周囲の人間、不可解な事象或いは、それらを認識する自己の、何れに誤謬があるのか、それが徹底して分からず、ただ何か不可解が生じていることだけは判然とし、女は依然毒花を抱く。

 毒花とは何だろうか。作品への理解度を抽象するなら、私は毒花を、彼女を形成するに至るすべての歴史だと思う。それはエレブロであり、ストックホルムであり、スウェーデンの政体乃至は外交官であり、施策乃至は北欧人権主義思想その内外視の差異であった。或いは父の正義感であって、より具体的には父の遺稿─スクラップ─なのかもしれない。親指姫…

 技巧的には、主人公をPTSDに置くことで、読者さえも不信感に陥れることが叶う点に感銘を受けた。何をも、信用するべからず。そういう意味で没入感があり、写実的であった。私の生けるこの時空にも、その遥か果てなるスウェーデンに、そうした不可思議の錯乱に至った世界があるかの如く思われ、本を閉じたのちもサラの精神状態を案じ続けた。案じるとは疑うことであって、私は結局、あの空間が、患者が稀に思いついた、ただの虚構に過ぎなかったのだという疑心を捨て切れないでいる。

 『毒花を抱く女』は啓発的なサスペンスだった。謎はイデオロギーそのものであり、ある意味では、自然発生的な怪奇なのであった。

強度の欺瞞

 かつて善性は存在せず、それを説明する言い訳だけが存在するのなら、私は敢えて、それを善性と呼ぶだろう。

 結局、私の直感は正しい。この道に悟入してから改めて言おうと思ったが、人に不要なものを買わせる行為は、悪そのものだ。そして、それが高額であり、人の生計を圧迫するものであれば、これは何らか行政によって規制しなければならないほどの巨悪なのだ。人を詐取すること、詐欺と我が業務はこの点で通じる。人を襲い、憔悴させ、籠絡し……その一連が何かの意において善性を勝ち得たことなど決してない。我々の目に見えているのは、自らの隆盛、充足、驕りである。本質的に、我々は簡便な成り上がりとして、詐欺を好む。

 気付いたのだった。

 先だって母が我が職場を訪れたとき、我が心中に響き渡る止水の滴、正気に戻るときの不快感、滲み立つ音色に勘付いたのだった。正常を逸し、正義を逸し、すべてに悖った自らの現状に投じられた嚆矢だった。音成りは返す返す呼び起こす。それはきっと自らの善性、自らの正義、自らの正常、生活。私はここにいて、自らを錯乱に叩き落とし、狂気とそれに気付かぬ愚鈍さを手にし、他人を詐取の道に招いていた。それが現の職場。現の心情。現の存在意義。

満員電車の善性

 満員電車の不快指数は底知れない。特に梅雨に入ったこの時期はつくづく思う。満員電車とは悪性の塊であり、人工の害なのだと。しかしながらそれは、結果的には人間の欲と愚鈍さの募る悪であったとしてもその成り立つ過程には少なからぬ善意が関与しているのかもしれない、という話。

 というのも、満員電車を防ぐ直接的な手段とは即ち人を集めないことである。故に最も効率的なのはドア前に突っ立って次なる乗車を断ることであるが、それは殆ど道義に反しているといえる。なぜなら人の自由と利益を侵害しているからだ。何人たりとも侵されてならない選択権を害する行為に他ならず、個人を軽んずる右行為はそれこそ悪と言って差し支えない。世に善悪の二元構造あれば既にここで決着が着く。右行為に出ない紳士の諸君らは自らが悪性に堕さぬ心掛けのために満員電車という善的な衆愚を形成するのだった。

 それは単に譲り合いと言い表すこともできるだろう。我々は電車のスペースを譲り合い、下限の利益を譲り合い、上限の不快感を譲り合う。一連は慈しみを持って行われ、今日も衆愚は箱に群れる。我々は善性をもって理性を鍛え不快感を黙殺しながら、きっと微小な利益にただ恍惚としているに違いない。

赤く呆けていたい

 究極的には我々は20代ですべての活動を終了しなくてはならない。死というただその一概に固執せずにいるのなら我々の希求する世界の真理を暴くために費やせる時間は生を受けて30年の頃にしかない。私はこの畢生を決定付ける確信をこのおよそ8年で見出さなくてはならず妥協という妥協を辞してそれを定めなくてはならない。死とは瞬間を指さず生のあるがままに緩やかかつ曖昧に続くものだ。私は現に死に続けている。それは我が30歳に向かわんとする意思の抜本的な目標なのだ。私はあるいは生き続けているが死に続けてもいる。この緩慢な20代の頃にきっと私を殺害しうる事由はなく例えあったとしてもそれを発見しうる程度の知見は持たないのだった。あるいはとうに気づいていたとしても自らの稚拙にかこつけ向かう余年の空白にきっと何かを詰め込めるに違いないという事実無根の妄想が逞しいばかりにそれを非するに違いない。それは我が母の子を願うこと愛する我が子に一切の絶望なからん呪いの解けるが如く薄々そして確実に希望とまやかしとの境界が判然としなくなってくる。既に母の手中を離れ自らの放縦な自由意思に従って生きれば生きるほど私は確かに傷ついていくのだった。あれは単なる幻想に過ぎないのか。私の私による私のための単独政治は自らを傷付ける行為に他ならなかったのか。揺籃し育まれた日月を空に見る。あれは単なる幻想に過ぎなかったのか。

 世界でたった一人真実に気付いたものがあるとするならそれはきっと数学者ではなく詩人なのだろう。月は夜を飲み込み空は意思を飲み干す。遍くを希求する我ら人間の星と遍くを睥睨する彼方の星々が泣いている。そんな夜に。

暫定的行動指針(5月11日)

 私がある頃より蓄えたある欲望のうち、何を実現し、何を却下するか、その取捨選択を連綿と続けることで漸進的かつ現在性のある人生を歩めると思う。言葉は媒体でない、我々こそが言葉の化身なのだ。これは、現段階(5月11日)において当座的な立案である。

【茫漠とした欲求】

・何か意義を有つ日々でありたい

     →退屈とは無縁でありたいため

・金が欲しい

     →金は文明の血液だから

・サボりたい

     →長閑でありたいから

・排他的な空間が欲しい

     →長閑でありたいから

【解決策】

 [何か意義を有つ日々でありたい]

・創作するか…

・文化的な趣味を増やすか…

 [金が欲しい]

・絵でも売るか…

・資金繰るか…

 [サボりたい]

・仕事辞めるか…

・死ぬか…

 [排他的な空間が欲しい]

・孤独を置くか…

・死ぬか…

【包摂的具体策】

・絵を描く(意義、金)

・資産運用(意義、金)

・一人旅(意義、排他性)

・キャンプ(意義、排他性)

・ギャンブル(意義、金)

・死ぬ(怠惰、排他性)

【選好】

長期計画:絵描き

短期計画:一人旅、キャンプ

 

以上

Twitterやってねーとアナル=アナルが壊れちまう

 アナルの学名がアナル=アナルだったらいいのに、そう思ってWikipediaに行ったらゴリラがゴリラ=ゴリラだった。

 なぜそう思ったか?私がトートロジーをこよなく愛するためである。愛とは愛着であり、例えば、私が発言に深みを持たせようと、二言でものを語る時に、次いの句が思い浮かばなかったとき、私はトートロジーを用いて前句を反復する。──アナルってのはね、ケツの穴ということでもあり、また、ケツの穴ということでもある

 そういうことがままあるため、私はトートロジーを愛さでいられなくなったのだ。往々にして、思考は敗北を喫する。──往々にして、私の題する悉くの事物は、私の感性に如くほどの内容を秘めてはいないのか?──単にクソほど造詣がも足りてない。──“用を足す”というのなら、“クソを足す”と言ってもいいだろう?

 Twitterをしなくなったというのは、あまり日常的なツイートをしなくなったという意味である。私のTwitterは既に、喜劇と悲劇を繰り、合間合間にヨルシカの歌詞をうわ言のように差し挟む場でしかなくなった。それは、客観的に見れば動静に満ちた有意義な日常に見えるかもしれない。ただそれ以外はどうなる?私のドラマを創るときにカットされた日常とは?喜劇と悲劇に至らないというだけで、排斥される些末な感情は報われるのか?ドラマだけが私の実存ではない。寧ろパッチワークに付された生地の方が遥かに広範であり、私を私たらしめる機微を多く含むものだ。私を見てよ!!!!本当の私を!!!!!

 しかしながらTwitterの濃度は上がったと思う。一般的な用法は他所にして、Twitterに望まれる姿とは斯様に、人間味のない喜劇か悲劇かの公演であり、幕間にヨルシカの歌詞が流れるものだ。