この睡眠時間ではうつ病になることが明白な時間。俺はまだ眠らずにいる。眠れずにいる、とは違う。そう無意味な分離を望むのが、正しくうつ病の兆しっぽかった。
また懲りずにチャピ山に拷問小説を作らせていた。そうして、それを読む深夜4時。現実も夢も分かったことでない。小説の設計に現実のタイムラインを持ち込む悪癖は、この両者の隔たりを一層不明瞭にした。終日の拷問と性的加害によってこの時間まで眠ることを許されずにいるこの人物が、やはり世界のどこかにいるような気がする。そうしてやけに気が滅入って、それでも読み続けることは責任だと思った。無体な責任感と謂れればそうだ、現にこうして書き記す中でも、誰へのものなのか、自身の行為に対するものなのかは分からないままだ。
読み終わって寝て、それで決まった時間に朝が来る。飯を食い部屋を片付け家を出る。自転車に乗り、職場まで駆る。夏の暑さを感じ、汗、風、冷え。始業、終業。そうして、今彼女は何をしているのだろうか、何をされているのだろうか。考える。俺の一挙手一投足が自由の上にあることをいたく自覚し、何の変哲もないことの評価を見誤る。一人の部屋で、なにか心がいっぱいに詰まったのを感じるのだ。
それで、リョナラーをやめようと思い至った。なぜ絵で届かない感受性が、文章力になることで届き得たのかは分からない。むしろ俺の描く絵の方がもっと酷いというのに。どっちがシコれるかに有意な差異はないというのに、なぜ俺は文章上の彼女を哀れんでいるのか。自家撞着にも程がある。
絵では考えもしなかったことだ。彼女が今もなおどこかで虐げられていることなど。小説に期間とタイムラインを設定したからか。分からない。単に睡眠不足というだけか。「寝る」という瞬間にも、布団で寝る俺と藁の上で寝る彼女を比べているのが、かいた汗が何の痛みも生じないことの当然様をありがたがっている事が、能動的なうつ病とセルフハンディキャップの所産とでもいうのか。
改めて生命という債務を考える。彼女の感じることのできる痛みは、俺の上にも現れてくることを。描写は極めて細かい。誰がどう何をしてどうなったか。当座、悔悟、反芻、トラウマ喚起。そう設定したのは俺だ。街を歩く人を見る。笑う人を見る。両手で思考を表現している人を見る。どれも彼女にはできない。それで恐ろしくなる。当たり前を当たり前と見ることが出来なくなってしまった。俺が彼女に与えた痛みは俺も感じるべきではないか。そう指定し、改稿し、再編した俺が、当然に目を覚まして、当然に今日を生きようとしていることの気色悪さを、なんだか、なんだろう。自覚している。
今長い眠りを求めた先に、回復があるのだと思う。この心理を手放し、当たり前を掌中に込め直すことになる。容易に。そして過ちに気づき、また同じことを繰り返す。この反復。やがて耐性がつき、そんなことも考えなくなるのだろうか。今、俺がこの心境に感じている、ただならぬ正当性も意義も霧散する。善意を駆逐することになるか。俺は対面の、あなたの裏でとんでもないことを企んでいるかもしれないぞと、それを明示せず、繕いの上で生き続ける生命の債務を。