モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

へぇ、

ルクアの地下にあるフリースペースは、辺りの惣菜や料理や酒やら菓子やらを持ち込むことができる。要は宅飲みの最強版、眠りこけることに限ってはできない点除けば。

しかしながら未だに虚勢の張りどころを掴めないでいる。今までどんな境遇に立ち会ったか。今どんなことが楽しいか。前会った時からどんな変化があったか。3ヶ月後には何がしたい。友達の数は何人だ。今疲れてる?労働環境はどうだ?金は十分か?それはそれとして休日は何して過ごしてる?今日は忙しかったか?今刺激的か?ん?ええ、はあ。うん。

虚勢の大抵は嘘じゃない。下手くそしか嘘を張らない。虚構を作り上げるんじゃなくて表現でそれをやるというのが面白いところだな。人の心をくすぐるような修辞を与えてやることが、すなわち誰かしらの心を満たすことになるだろう。省みるに、彼らはたくさん虚勢を張るタイミングを与えてくれる。口を開けば素直に耳を傾ける。彼らは礼儀を知っている。

断っておくが、虚勢を張ることが悪いことだなんて露とも思っちゃいない。自分にとってくだらない経験も、言い方次第で他人を感化させうる可能性を秘められるのだから。甲斐甲斐しくやってろうというそれも、実は自己保身の一部なのさ。肝要なのは貴重な経験を伝えることではなく、自尊心を伝えることだ。ゆえに張りどころを定めなくてはならない。「わたし、わたしのことをこんなにも可愛がっていますよ」なんて言葉はチャーミングだが、テンションを間違えるとただの痛いやつだ。

別に今日のことなんか誰も覚えちゃいないのに、こんな都会の地下でも真面目に生きなきゃならんと思っているやつがいる。そいつのことが心の底から羨ましいと思っている。誰の前でも緊張を禁じ得ない人間も、どっかから借りてきたような気遣いをするものも、笑えないものも、一生座りの悪いものも、その全部がうんざりするほど美しいと思っている。今目の前にあるクワトロフォルマッジよりよっぽどこってりした善意だね。なんて笑ってやっても明日のやつらを生かすことは出来ないんだぜ?そんな綺麗な顔も明日になれば誰も覚えちゃいないのにさ!

俺たちがどれほど酩酊しようと、あいつらの方が夢を見てんじゃねえかって思う。人間の甲斐性などという無体に縋り、その姿なき果てを追い続けるような白昼夢を。

空っぽだねと思った。その角にある鮨屋で海鮮丼を食ったかつての俺たち。あれは思い出の出発点だった。そこから梅田という街が拡がって行った。その影が今でも椅子にこびり付いて見える。時は流れ、道は違えどそれは同じ様態であり続ける。いつまでも思い出に綴じられないそれを虚しく思ったかは知らないが、その空隙にひとつの虚勢を張った。

「むかしね。会おうと思えばいつでも会えますよ?」

その飾り偽りなき言葉が嘘であることを確かめるように。