モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

10-11

今日は曇りだった。8時のアラームを頭に響かせながらそう思った。身体が重いのも、それが原因だと思った。

最近、妙に起きれない。周りが一挙に冷たくなったからか。気温だけじゃなく、隣人も、その関係も、その態度でさえも。しかるにまだ凍えるほどでもない身体は、一度起きてしまえばすぐに体温を取り戻す。部屋の扉を開けると、同居人が僅かな温もりを残していた。

家を出るまでの間にできることはない。そして一度出てしまえばもう何も関係ない。外は晴れていた。だが今日は曇りだった。なぜなら起きた瞬間に、そうと決めたからだ。

一日はそれとなく過ぎていく。良くて平凡、悪くて退屈。気の持ちようでどうとでもなることだ。大義があるのかないのか、使命に追われているのか、そうでないのか、結局、所在の知れぬ意味を追うことにはなる。どんな仕事でも、一個人に許された納得の量は限られている。

「居ることに意味があるんだよ」と、前の店長は言った。それに反抗して辞めた口になっているが、心の傍では首肯していた。「居ることに意味がある」「居なくていいやつなんていない」他愛のない会話でも、黙って口をとんがらせているよりかはずっと面白い。沈黙を評価しているやつは、沈黙しか評価するものがないため、仕方なくそうしているに過ぎない。そして、沈黙は存在するが、沈黙それ自体は全くの空であることに気付いていないふりをするのだ。

ないものを評価するのは難しい。ないものを評価するには、ないものを「ある」と仮定したうえで、その対極の「ない」場合を想定する必要がある。しかし、それは本来「ない」もののない状態が「ある」と仮定されており、「ない」ものそれ自体を評価するものでは決してないのだ。

だからこそ、居ることに意味があったし、辞職は無意味な選択であった。少なくとも、ない未来について話すことは躊躇われた。

そこで無意味な選択をした経験から、今もなお無意味な人生が続いているような気がする。何かにつけて集中が続かないのも、熱意については表現力ばかり身に付いてしまうのも、疲れているのも、何をやってもそこまで愉快でないのも、地続きの価値の絶滅のために起こっているのではないかとも思った。

しかし、それは大事ではなかった。居ることに意味があるという発言に納得した以上、自分は今の実在性に納得するべきで、それが価値の最低限であり、最上限でもあった。自分はいる。平凡も退屈も存在する。それ以上に意味など求めようもない。そういう言い方もできる。

 

美容師が難波でオーストラリア人にナンパされた話をしている。珍しく親切心の湧いた美容師は、困った外国人を連れて難波を案内したそうだ。南海からJRへ、JRから千日前へ、グリコの看板へ。グリ下では変わらず風が吹いている。しかし、それに言及することは、ここでは意味を含みすぎていたのかもしれない。

夜風と恋愛、そして気まぐれな善意は、それぞれ全く関係のないところにある。国籍不明のオーストラリア人は道に迷っていたし、難波に吹いた風は微風に過ぎなかった。だがもしそうなら、その気まぐれな善意の正体を知るものは、そこになかったということになる。

曰く、恋愛を諦めている。美容師としてそう言われるのは癪だったかも知れない。しかし、その危うさを得てして越えないことを諦めと言わない彼女は、少し強がっているようにも見える。気まぐれも一種の危うさだろう。それを肯定できないのなら、人は何を意思と呼ぶのだろう?髪を洗われながら、鎖された視界の閉じた瞼の奥で思っていた。仮に同じことを俺が言ったとて、結果は変わらないのだ。意思があればそれを変えられる。そして俺は、俺の中に発念する危うさが排水溝に流れていくのを聞いていて、これが諦めなのか何なのか。運命に意思を委ねることを是としない意思のことについて、終わらぬ問答を続けていた。風が、鼻のかしらを掠めていたのだ。

 

その夜、退屈な夜。俺は久しぶりにキショ工作をしていた。

キショ工作は楽しかった。キショいと言って自分を宥める。その手垢のついたやり方に懐かしさを覚えていた。
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