一年ほど前はまだペーパードライバーだった。車の運転は苦手で、苦手というよりやりたくなかった。失敗が目に見えたうえでそれに及ぶという蛮行を知れず、そういう意味では苦手だった。結局、不得手であることは今も変わらない。ばるんと走ることは出来ても視野を意識することはできず、一時不停止で死にかけたり、先日は結果として車を壊した。
だが車を壊してなお運転をやめようとは思わない。死にかけてなおも変わりない。ペーパードライバーが運転するにあたり必要なことは命に対する納得なのではないか。
少なくとも俺はそうだった。死のうが殺そうが納得の行かぬ話ではない。車上で死ぬ人間は多く、路上で死ぬ人間も多い。得手不得手を問わず、それはただ茫漠とした数字で現実を語るのだ。そこに列席することを何か理不尽に捉える方がおかしい。きょうびこれほど正しい死に方などない。大いに普遍的で、単なるあるあるだ。特にまっとうで、これ以上はなにも、なにないのではないか。
不慮を至らしめ死することは、もはや運命的なのだ。天佑は尽き、儚き意思は絶える。わが車列は生を運ばず、即ち死を運ぶ。