モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

宜野湾

 執心の旅である。即ち、何をしても心残りがある。それは、私の命の終わるときと、楽しいことが終わってしまうときの間に、やむにやまれぬ差というものが横たわっているためである。

思うに、憂慮とはこの差から生じるので、万事感情のままに行きたいと思えど、我々の寿命というものは、そう易々とコントロールできない。できてはならない。

 然して、こういう瞬間こそ、我が絶望が心の底から湧きいでて、もはや覆い隠せないほど巨大な渦となる。巨大な渦は、私の情緒の悉くを飲み込み、ありとあらゆる感情の堰を破綻させ、吐き流させる。この瞬間ばかりは、私は幼児に戻った頃のように、甘く、弱く、脆く、そして儚いまでの感情の相手をする他ない。そして大抵は手を拱ねくだけで、進化の過程を見過ごしてしまうのだ。

ああヨルシカのライブツアーが終わった。そればかり考えている。そればかり考える能以外を失った機械のように、ただその事実のうち、失ったことばかりを見つめている。これは、執心の旅である。即ち、何をしても心を果たすことはできない。

当の果て、分かりきったことではなかっただろうか。これが終わることなど、この先、明瞭に楽しいと思える瞬間が、きっと訪れないだろうことを。畢竟、それが分かった先の絶望の暗さなどというのは、もはや舌後に落としておくべきことなのではないだろうか。

それでも、人は悲しみの程度を予想することはできない。予想したとて、自分がどれだけ悲しむかなどというのは、往々にして想像を越えてくるものだろう。私に至っては、そこにかねての想像を超えようという挑戦心さえ垣間見えるのだから。

つくづく思うことがある。悲しみは無限に増幅するのだろう。その無限に増幅するなかで必ず閾値が存在し、涙は横溢し、悲しみは吐き出される。その悲しみが、心中にショックを与えると知っておきながら、然してそうしてしまうのは、ほとんど破滅願望に近い。そう思えば、悲しみに対する説教性が有する詩的さは無視すべきでない。だから文学が栄えた。

雄弁である。詩的である。幾夜幾夜と悲しみを超えてきた人類が、改めてそれに向き合っている瞬間のかけがえの無さを知っている。これは、究極的には詭弁でしかない。詩的とか、雄弁とか、虚飾に塗れた諺を好む人間の、最後の過ちにほかならない。

私は、この悲しみを、この手に余る悲しみについて、どうすることも出来ないと思う。それは定めし運命によって、定めし思慮によって、俺はどうすることも出来ないし、どうもしないと決めた。

決めたんだ。悲しいということが事実であるうちに、それを固着させねばならない。誰とも話すことはしない。俺も俺がどうなろうと知ったことではない。奔放だ。悲しみを放し飼いにすることが、その不始末がさらなる悲しみを呼ぶことなどありはしないのだから。

執心の旅である。即ち心を残すことになる。

ヨルシカの絶景は、この120海里を超えることはできない。そして俺も、無謬では帰れないだろう。