モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

遊星接近

 冬の女の服ぜんぶかわいいーなどと言うこと言っていたら、夏の女の服もかわいいことに気付いた。そしてしばしば本質を逸していた己を恥じていたりする。

 TikTokを見始めたのは、有り体に言えば感覚の矯正でもあった。幻想と非現実と現実の狭間で意味を持たざるものはなく、すべてにおいて価値があるのだという、寛容の矯正である。

 けだし、そればかりが昨今の社会を支えうる要素であると信じており、共感性羞恥などということばは悪癖に他ならないのだとして、見事にすべてを肯定した。

 この方法は、ひとつを除いて完璧であった。即ち、寛容と無興味は客体にとっては何の違いもないのだという真実……を除いては。

 多くは、見てくれに対する過信と、過剰なまでの称賛と、うろ底に潜む欺瞞に溢れており、ルッキズムの一大政党が超然と君臨しているような社会である。かの社会学者が嘯いたような、良いものは即ち良く、悪いものは存在しない、理想の社会がTikTokの中にある。この異常なまでの偏執を、完成と言わずしてなんというのか。恋愛に餓える愚者と、自己陶酔に昏倒した富者、虎の威を借る狐、多弁な二枚舌と、多くの亡者。多様な人の欲が密集したまま、非常に簡便な秩序が敷かれる、これこそが人の世なのではないか。

 ともあれ、この邂逅を遊星の接近の如く訳し、地上の法則、体内の法則、市井から辺獄までの悉くに影響を与え、現行の新秩序を敷いた。

 善悪と良識の外側で、繰り言のように呻きをあげている。幾夜々々。