モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

時計

 自分の意思に価値があると信じているうちは主体性が明らかである。“わたし”が何をすべきで、何をしたいか、自らの欲求が他の何を差し置いて圧倒的に優先し、その正当性について一切疑義を孕まない。完全で純粋な自己意識が原初の肉体に宿っているのだ。

 世界を体系とし、その頂点に君臨すればいい。わたしが希求したもの、そして希求したいもの、そして今や薄れつつある信念。繰り言にして自己を解析したあの頃に較べ、わたしという存在はどこまでも相対的なものに落魄れた。乃至、わたしという存在はこの幾許の日々と自己利益の外側で、風雨と日月による磨耗を受け、無意味に萎びつつあるのかもしれない。

 主体性もまたひとつの狂信ではないかね。わたしにわたしという神が降り立ち、すべての構造を作り、すべての秩序を律し、混沌と白墨によって描かれた壁画の、陳情に過ぎない。言うなれば後日談。事象の結から帰納した後追いのもの。そんなところに果たして主格など宿るものか。遍くは、主体性など律せざるとも、自と他の複眼的思考により瞭然と分かるものだろうから。然して、わたしという存在はわたしという主格が律するのではないし、わたしという神が律するものでもない。わたしは極めて自動自律に駆動する秩序そのものなのだ。

 時に、世界を体系とし、頂点に運命の君臨することを思う。わたしは自動調律によって極めて正確に時と営為とを刻んでおり、その働きは何にかんすることもなく、無関係かつ絶対的な滅びを待つのみ。残り何万何千という呼吸と、何万何千という拍動。それらが一切のズレを生じず、来るべき滅びに正眼で対し、火線の如き眼差しをして、自己を完結する。

 相対するは自己だ。自己の滅び乃至は自己そのものである。わたしの刻一刻という瞬きと、生まれた瞬間の瞬き。それらには何の違いもなく、わたしの生とは、その原初一回目の胎動を、薄く延ばしたものにすぎない。この一回こそ完全である。秩序も、主格も、他と較べようもないほどに絶対的なのだ。