モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

パニーニ

しばらく本を読んでいなかったが、人に借りてようやく最近読むようになった。人に斡旋されるとは情けない限りであるが、かつて手にした背表紙の反りがなんとも懐かしく感じられる。これとともにした時間が甦るようで、開いてしばらくは文字を追うことだけに感動していた。

かつて放したのは自分だった。読書という趣味が、私によって飼い慣らされる前に、自然に帰した。手に余ったわけではなく、その高尚さが、ただ俺の手の中で崩れていき、いかにも独善的に、ある意味では超然的になってきたために、結局それを気持ち悪がって辞めたのである。

 

本を買うことは、本を読むことよりも重要である。本を買う意思が知識への手形となるのだ。そして本を読む理由を考えることは、書上のどの文字列よりも大切なのかもしれない。少なくとも、その趣味を続けたいならば。

かつて本を読む理由に追いすがっていた背が見える。大抵は本屋で、足早に書影を眺めながら、霧に巻かれ、情報の森奥へと誘われつつある自分を。幾度となく、その静かなる興奮に息を詰まらせていた過去を。そうして、手の先にたまたま置かれた本について、純粋な疑いを掛けていたことを。本屋に行けばそれが体験できた。

疑い。それこそが実感だ。言葉、他者、本屋。それらを繋ぐのは純粋な疑いであり、眼差しはたしかにそれらを貫いていた。甘いキャッチコピーを、他者の薦めを跳ね除け、目に映るのは書影と表題ばかり、それ以外の要素はすべて、疑うより前に視界から去っていたのである。元よりそこにあったのは、表題とそれを疑う俺だけ。いや、表題さえもなかったかもしれない。

パニーニをひとつ頼む。私は目を閉じ、鞄の中にある書影を思い出している。おぼつかない暗闇のなか、私の後悔は一層激しいものとなって、まぶたの裏を焦がす。それはやがて強固な現実となり、パニーニを頬張る頃には、もう文字を追えなくなっていた。