モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

絶望はどこから来てどこへ行くのか

感情という構造体の胎動が増幅と逆進を繰り返している。その本質は過剰な思い込みであり、最早、感情そのものが「我に感情あり」という大いなる錯誤のために起こっている幻想なのだ。なぜなら、そんな形のないものに意味を与えるという、途方もないことをやってのけた主体は、きっとどこにも存在しないのだから。しかしながら人間は、そういう主体がどこかにあらんことを願い、自らの深奥にそれを要請し、返答を待たずして感情の非存在を封しており、皆んながそうしているから、私も絶対に感情があるのだと、自らの深奥に約したはずの契約の証左を体外に求めることを善しとしていて、互いが互いに欺瞞を擁することで、強固な虚偽を構築している。仮想された感情は振る舞いに表出し、至って健全な外景を模している。
そうは思わないか。絶望もまた増幅と逆進を繰り返しており、その終わりなきを助長している。だが絶望など存在しない。それもまた強度の傾倒である。自らを感情の生命体と為した不実の契約による自縄自縛である。絶望はどこからも来ないしどこへも行かない。明日は遠く、夢の合間に翻っている。朗らかな陽に揺れる雲が眩しい。
絶望は増幅と逆進を繰り返している。絶望など存在しない。感情が存在しないから。やがて明日も遠のくだろう。現を違わず、陽も雲も翳り、やがて無感動の深淵へと落ちるのだ。
増幅と逆進を繰り返すべきだ。