モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

褥瘡

 痛みと痒みのどちらが耐え難いか。それを知る、その意を知る。やはり私には、痒みこそ耐え難い。

 

 先日、学徒を辞めていよいよ本当の社会人となった。こうして見ると、晴れも曇りも前も後ろも無くなった、或いはその存在が、存在するままにどんどん希釈され、無意味なまでの靄として観念のみをその場に留める、そうした曖昧な感覚が残っている。かつて「前進」の対義語を問うた時に、「後退」ではおかしいとした、あの日のように、ただなだらかな坂をゆっくり転げ落ちる感覚と、そして、上り坂と下り坂が、奇しくも同数だという不可思議の闇に招かれている。

──我々は闇の中で前進し得るか、それとも闇に向かうことすべては後退なのか。

──前を“見る”。後ろを“向く”。それは目の位置する次第に他ならない。

 この闇では前も後ろも分からないし、右も左も分からない。それは、学徒たる実存を失した人間に分かるはずもなく、いきなり社会人としての方向感覚を与えられた私にさえ分からない。学徒たる我が無意味は、我が声高に前と叫べば即ち前だった。我が声音の向かう先に必ず前が存在し、故に前進し続けたのである。光の幻視。

 やがて本当の光が見えたとき、私がどれだけ離れていたかを知った。光は遠く、そして小さい。私はその矮小な光を目指して踵を返すのだった。そのとき、私は初めて後退したのだ。

 

 正しさの基準が幾つもあるという矛盾──ある事実にかんしては多いことが正しく、ある事実にかんしては強いことが正しい──。幸福にも真の姿があり、人々はあまねくそれを目指している。ただその営みが、自らを幸福に当てはめるか、或いは自ら幸福になるかという点においてのみ、幸福たり得ないものが生まれているのかもしれない。

 

 オナニーは独善である。対象をもつオナニーなど、なんの意味もないのだ。