モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

黒蟻

一匹の黒蟻がいた。

その前には一羽の羽虫がいて、そこに後から黒蟻が来た。

私の見た情景は三つ。羽虫が留まっている。黒蟻が到来する。そして、黒蟻が羽虫を捉まえている。

私は不満だった。何より、私は狩りが見たかった。

人間は狩りを知らない。人間の狩りとは、既に死にたる獣や、ひたすらに、どうしようもなく静的な植物に向けられる一方的なものである。如何にも簡単で仕様もない狩りであり、難しい点といえば食器の扱いくらいのものだ。この点において、獲物とはやはり得物であり、箸だの何だのの作法こそが、生命一般の狩りの教えに類すると思われる。人間と道具は古き友であった。それは今も昔も変わらない。特に、棒と縄は最も人類に親しい。そして、我々は感触を忘れた。直接に触れる折を失した。獲物の体温を知ることはなく、動静を楽しむこともなく、怒りも、慈悲さえも、どこか忘却の果てに行ってしまった。ただ怜悧な友が、友となり得べき存在との、あらゆる友戯を遮断したのである。爾来、我々は道具とだけ親しかった。

私が狩りを見たい理由は、きっとそれを教わりたいのだ。狩りの所作に付随する楽しみ。激憤と慈悲。そうした感情の脈動を知りたいのだ。なのに、黒蟻はそれを見せなかった。ただ状況があるばかり。羽虫の肚を番えた口吻が挟むのみである。これには五分の魂も閉口を余儀なくされ、死骸に言もなければ、死骸へ手向ける言も無さげであった。私もバイト中だったから凝っと見ているわけにゆかない。ひたすらに、機会に恵まれなかった。

時に、不幸の集約する日を思う。この些末な不幸も、その大きな澱みを形成す一要素に違いないのだと。思えば、当日のはじめは或る不眠症に悩まされていた。眠れぬ仰臥に啓いた構図。猟奇的快楽主義に基づく絵画。自らの造物に対する倒錯的人愛と、物性の逸脱。二度の射精。ひもじい睡眠と明朝の出勤。後輩の寝坊、社員の些細な失態。手袋を洗い忘れ、仕方なく汚泥を許容する。雨が降る。そして黒蟻。始まって半日も経たぬうちに、これだけの不幸が思い当たる。これだけ探しても、幸福はひとつしか有り得なかった。それもまた即物的で、事後的な不幸の翳りがどうしようもなく濃い。

あそこには生命が三つがあった。失われた羽虫と、奪った黒蟻と、傍観した私。羽虫は死に、生者は黒蟻と私。だが黒蟻の口吻が私に向くことはないように、私の素手が黒蟻を破壊することもありえない。たった一匹の犠牲者で済んだ。このいっときの平和を互いの口吻に携えていた。

気付けば羽虫は団子になっていた。黒蟻は羽虫を団子に変えた。丁寧な団子は誰のために拵えられたのか。こいつもまた群体の生命であるから、その団子は幼子のために作られたのか。群体。こいつの他に黒蟻は見当たらなかった。他方、私の周りには多数の人間がいた。だが、互いに孤独だった。少なくとも、私は孤独だった。孤独という意味で、この黒蟻と何も変わらないような気さえした。天蓋はかなり頭上に迫る。重い水滴を多量に抱え、やがて堰が切られる。雨が降った。雨が私らを囲った。

最後に見たとき、黒蟻の口に団子は無かった。落としてしまったのか、それとも食べてしまったのか。どうして一生懸命にこさえた団子を手放してしまったのか。私が業務をこなすのと同じ時間を掛けて、俺が何本も電車を送るうちに、作った一個の団子。あまりにも矮小で、あまりにも崇高な団子。どうして食べてしまったのか。俺もお前も待つものがある。孤独とはいうものの、やはり必要に駆られるから業務をするし、団子を作る。お前が団子を食うなら、俺は電車で帰ってもよかったのに。お前は勝手に放棄して、それは、それはやはり、非常に、狡い。 

その後のことは知るまい。俺がやつの眼にひとつの諦念を見たなら、やつはきっと帰るのを辞めたに違いない。なんのせいか。やつが自発的に群れを脱すなら潔いが、どうせ矮小な虫風情である。帰巣フェロモンが雨に流され、やつは家に帰れなくなった。それだけのことだ。だがやはり、狡いと思う。俺も、家路を忘れさえすれば、きっと家に帰らなくて済む。2020,9,9