モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

ガソリン洗浄剤

 自らの職種にはほとほと絶望しているのに対し、それがひとたび他者の演目ともなると非常に恐縮してしまい、某人の薦めに甘んじてしまう性というものがあって、ただそういうものが単なる親切というよりかは、他者に対する憐憫というか、それ自体はきっと自己をも含めたこの業種に携わるすべての人間に対する慰め合いのような気がしてならないのであった。他人の薦めを棄却するという行為をこんなにも億劫に思うことはない。いかに業務といえ、やはり我々は初見に相対して見る人の良さを一定信用してそういう営業行為に望むものであり、そこには「およそこの人なら買ってくれるだろう」という期待が滲み、横溢して止まない。そういう純心がゆえの愚かな期待を我々は金銭授受の義務関係によって為さざるを得ず、その次第において愚者に対する奴隷なのであった。人を信用することを大いに不得手としてきた。だが単価の上昇につれ相対的に誇大妄想的善人を前提として営業に望まねばならない。愚劣の極みに今いる。その聖性カーストの底面で期待と裏切りの朝夕を過ごしている。そういう人生にある。私は愚かに人を信じる。人は愚かにも私に期待し、私を信用し、あるものを買わせようとする。買わねば裏切りとなる。奴隷の裏切りを意味する。そういうものが世間体的に認められているのかは知らん。ただ私の手の届く限りに鍬も鋤もない。あまつさえそういう思想もない。私の愚性に対する甘受はあらゆる意識を希薄化し、自意識という自意識を徹底して塗り潰す。それは世間体的にかくあれかしと望まれた奴隷の、ある意味での聖性である。愚かな純心。愚かな奴隷。奴隷は傷んだ純心を癒すために他の奴隷と傷を舐め合うのである。私はものを買うのでない。傷を買い取るのである。