モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

生殺之機、一時の酔狂に委ね

俺は特に酔狂な人間であった。先日、何がきっかけか思い出せないが、「酔狂」という言葉を思い出した。その言葉は、凡そ二年前くらいに俺が使い古し棄てた言葉だった。言葉は使うほど陳腐になる。きっと一本携えた芯に違いなかったが、それでも腐ったなら替えるべきだった。

 

その一、俺は親に「大学へ行く」と言って実際は山へ向かった。親は「お前から大学へ行くなんて言葉が聞けるのは何時ぶりか」と喜んだけれど、その喜びは果たせなかった。一応、大学へ行くつもりはあった。山に登って余力があれば大学へ行こうと思っていた。

阪急芦屋川に降り立ち、慣れた道を渡ればすぐ山道に着いた。山道に入り、道なりに登ればすぐに風吹岩に着いた。次第俺は登山を終えた。その後、風吹岩で怪我を三つ作り、阪急芦屋川方面へと引き返した。この間、二時間である。

人生は二時間で決しない。だが、決することもある。道中四度はすっ転び死にかけた。山に慈悲がなければ傷が化膿して死んでいたかもしれない。それを思えば、俺が山に何を求めたかも自然分かる様だった。

「何故山に登るのか?」ーー It's there.と答えた人間もいるし、つらつらと御託を並べた仙人もいる。山に理由を求める風潮はいつ始まったか。俺も山に理由を求めてしまった。山などと。山の本質は巨岩である。そこにわずかな土が乗っているに過ぎない。そんな微少な土だけを踏んで高く遠くを目指す。言ってしまえばそれだけの存在に、何か理由を求めてしまった。巨岩を前に人は一人の人間になる他なし、ともすれば貴賎に拘ず皆死に得る。生死と題すれば誤謬であり、あらゆる選択は死ぬか否かであり、その否にしか生の居場所を求めようもない。そこに積極的な生が存在しなければ、皆等しく「死にたくないから生きる」という価値観に均される。これを逆に捉えれば生きる理由に事欠かない。死を忌避する限り生きる理由に不足はないという。俺は、あの巨大な花崗岩に「なぜ俺は生きているのか」という命題を叩きつけたのである。

登山中は考えなければならないことが多い。ところが思考は駆逐される。激しい起伏と相対的低酸素により、人の思考は「ただ死なぬこと」一点に集中する。その先に漫然と登山をしている間抜けが形成される。山に登るのは間抜けだ。諸君の思う様に、いかなる無聊であれ山に登るのは病的である。俺も常々そう思うが、いざ山に登るとそんな考えも浮かぬ忙しさに投じられる。そうしてやっと思考を駆逐した先に、俺の本能的な欲望が見えるのだった。山は「理由」だった。山に入りゃ当座当座の生きる理由には困らんし、死ぬにしても自殺は理由にならんが、山に入って死ぬなら山が理由になった。生きるにしても、生きようと選択する限りはそこに見えぬ生存意義があるようで、そこに夢を見ることも出来る。俺は二時間で生きようとしたし、死のうともした。何故と聞かれれば、そこに山があったからだ。

結果俺は生き残った。山に死ねと言われれば死んだが、死にかけたところを助けてもらった。下山中三度行き止りに逢い、折り返し道を替えたりして、結局三度とも全く同じ場所に辿り着いた時は「滑落じゃなくて餓死で死ぬんやろか」と思いもしたが生き残った。実はその場所は正規の下山道で、三度も生存の機会を与えて下さった山神に無類の感謝を述べたりした。俺は生きた。山を理由として生き残った。凡そ説明不可能な事象は、神霊の仕業と捉える他ない。

その二、その日は河豚を食いに行った。河豚を食おうかという話は前々から出ており、その日取りを拱いていたが今日に定まった。今日は何の日でもない。ただ十月第三週の中日と評す他、何とも付かぬ平凡な曜日である。にも拘らず俺は河豚を食った。割引で安いと云うので食ったが結果としては高くついた。それ以前にも相対的に高いに変わりはなかった。しかし、得てして河豚を食った。食うべくだった。河豚を食うのは初めてだった。

初体験の限り、俺は河豚の感想などを述べねばならんようであるが、何か具体的にどうとかこうとか言えるくらいのものは抱いていなかった。とにかくただ一つは瞭然として旨い事実があった。てっさ、寿司、白子とか鍋とか焼きとか、序でひれ酒なんぞも飲んだしとにかく贅沢を尽くした。

何もない日に贅沢をすること自体が一定の酔狂ではあるが、この段において最も酔狂たる事実を構成するに役を買われたのは嘔吐だった。およそ一年ぶりか知らん久しき胃腑を覆す感触に襲われ凡そ喪った。会計割り勘定約八千円の大半を失し、最後にデザートと一口の唐揚げを空っぽの胃に入れて持って帰った。帰路はなんだか虚無であったが、まあ別に胃に仕舞うことが食事じゃないしなと思った。肚には何にもいないが記憶には確かに河豚がいた。栄養とか満腹とか求めてない点、別に不満もなかった。河豚は感覚だったのだろう。河豚は瞬間を生き、味覚として存在した。そうだとしたら河豚味のグミが発売されたらそれを好んでしゃぶるのだろうか。それはすげー馬鹿な気がしてやっぱりちょっと後悔した。腹が空いたまま寝るのは貧しい気分がして嫌だったからすぐに寝た。その仕草も随分貧しいものだった。

 

同日の河豚を食う以前、鬼滅の刃を四話ほど見た。一話で富岡の義さんが「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」とか櫻井ボイスで言っていたのを思い出す。次いでニェンが「生殺之機…」と振り出す。俺は今朝山にそれを委ねた。正直生殺とか与奪とか法整備された現代では言葉以上の意味合いはないし、彼らが何の悟性に基いてそんなことをいうのかは理解し難い。自らの命は自らに預けるべしとして、それで何かを守った気になっても自を殺めるのは常に他である。事実に於いて他が自を破壊する限り、生殺之権は往々にして自己にない。そんな信条を守ろうなら方法は一つ、自決以外に考えようもない。富岡の義さんは雪土下座をする炭治郎に手ずから斧で死ねと言ったのだろうか。きっと手斧では死ににくい。山よりも死ににくい。

富岡のも年獣も、自らの信条に生殺之機を携えて生きている。そういう信条が、いつかある作為によって自らを殺すことになっても、それは客体の仕業ではなく主体が決したことだと思えるのだろうか。己の振るう刀に己の意思が乗る限り、いつか諸刃が自らを裂いても不満はないのかと問う。信条の為に死ぬのは美しい。なら、酔狂の為に死ぬのは美しいか。酔狂の為に死んだ骸は奇麗だろうか。汚物も血も。