モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

報酬なら、これで十分だ

あーアークナイツの百合しか勝たねー

という段に愈々突入して、すればアークナイツを中断していた3月下旬から4月上旬の過ごした方を悔いるようになった。

この区間において二度のイベントが行われており、特に一度目のイベントなどは大層好ましいオペレーターが配布されていたのでくさくさしている。二度目のイベントにおいてもこの世界観を解するに極めて肝要なオムニバスが語られていたりと、この区間を等閑に付したるドクターとは何する者ぞやとの内省に堪えない。

しかしてこの数日はYouTubeにおける無断転載を刮目して凌いでいた。実際、講学的価値はそれで満たせるので別段致命傷の予感はない。ないのであるが、この問題は既に実利の次元を超越して存在するので不満は残す。どうにも態度が気に入らん。言うには、どうせソシャゲだから即時的なものだろうとの主張だった。

この主張は今に始まったものではない。原初、パズドラに端を発するソシャゲがスマートフォンを席巻してからというもの、その流行に曳航されて獲得した快楽を解剖にするといつもそういう答えが得られた。例の友人と語ったものにも、ソシャゲは即時的かつ浅薄な快楽を特有すると結論しており、この点、深長な快楽を生むフルプライスゲーム等とは区別して劣るべきとしていた。しかしながら、この浅薄な快楽とは必ずしも欠点ではない。世には深長な快楽では溺れてしまうものがある。疲れてしまうものがある。そういうものの為に快楽に制限を設けるソシャゲには需要が存在する。例のごとくコロナ禍にあり、数ヶ月の快楽極貧時代において、かかる啓蒙を得た。肝要なるは寛容であり、端的に言えば消極論である。何事も認めていかねばなるまい。得てしてあれこれ優劣を下す高潔気取りも疲弊するものだから。

だがやはり、人間は奇しくも水棲生物とは相成らんので浅瀬でも充分に溺れ死ぬ事ができる。この顛末を見て結果論的解釈を下せば、たとい深長であれ浅薄であれあらゆる快楽は人を死なすことができるから、それらはまったくなんの関係もない。死なむとして行ったなら死なねばならんし、そのつもりなくとも中途で死なむと至ったなら死なねばならん。

あらゆる悟性と理性の呵責を遮った愛情なるものだけ信じたいね。

全く話が脱線している。

要は自動指揮に任せてしまって出撃命令だけゼンマイ狂ったかの如く連打して理性をあびゃびゃとさせておけばそれで足りる人間に俺はなった。集めた素材で自らの兵站が充実するのを見て満腔をしっぽりさせておけばこれ充実と思えるようになった。肝要なるは寛容であり、端的に言えば消極論である。俺は猥褻で粗雑な快楽商品に異議申立をしなくなった。惰弱な人間を惰弱のままに愛せるならこんな素晴らしいことはない。常に驕りと高慢とが争いを産む。すべては消極論の聖典下に葦へと還元されればいい。さすれば、不安も不満も潰えて消える。

そうして、消極論の名の下に自らの欲を潰滅させ虚となった我が頭蓋に「あー、アークナイツの百合しか勝たねー」と反響させている。