モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

靄に綴じた夢

 淫らな夢を見た。

会社の同僚が夜這いを掛ける。私は極度に疲弊しており、現実と夢と、そのまた夢の間に現を見ていた。駐輪場の電灯薄明かり差し込む寝室に、音のある空間では最も静やかな、拍動と呼吸のみが時針を刻んでいる。

 三つに折った身体が大きなベッドを余していて、中央右寄りへの緩ゆかな稜線は、軽やかながら現実的な重みを演じ、静謐の中で確かな生命力が、無風に曝される灯火のように、微かな徴として存在している。

 それでも尚、寝室は夜の緊張に鎖されており、眠れる理性を起こすまいとして熱的定量を逸せず、密やかで冷たい。或いはそれを維持する装置であって、冬を忍ぶ布団によって薄く永い呼吸さえ止まってしまいかねない。病的なまでに動性を嫌っており、疲労の回復ないし維持について、当該の生命を停止することさえ厭わないとでも言いたげな寝室。治療室。霊柩。その禁を犯すまいとて、それは結局、極限に無防備なのだ。

 わたしは驚いて起きた。

(終了)

 

 私がなまめかしいと思うものについて、それは黒く、しなやかで、弾性があり、とりわけ奇特ということもなく、大いに秩序だっており、安心と規律を両得したかのような、美しいものである。肝心はなく、言うなれば全体こそ肝要であり、また全体こそ重要でない、唯一を要するものでなく、しかしながらそれでいて無二を希求する趣向である。

 永らく不思議だった。自らうちに字引きが顕現するまではずっと不思議に思っていた。私がなぜ、そういった鰻のようなものに艶を感じるのか。鰻の生体を一目見た時から虚実の狭間に誘われた感覚がして、強かな高揚と、急転の明滅をして、頭蓋の内奥を打鍵する。そういう感覚が、そういう確信が、そういう反応となって顕在し、不確かな真実として、目蓋の裏に焼き付くのである。本質として、根源として換え難い。鰻が目蓋に潜む。(終了)

 

 はっきり言って好きでもない人間の言葉を聞くことはない。好意も意思も跳ね除け、石ころ同然のもてなしをしても構わないという、そう言い切っても悔恨さえ湧かぬほど無興味であり、あるいはあまりの無遠慮さに憎悪している。

 昔の話だ。きっとそれは真実を知る以前、意義を定める以前の、幼稚で無体な妄想のひとつ。幼さであり、知的にも未熟であり、ゆえに貪欲に欲した時代、善悪も賢愚も純な意味で飲み干したかつての思索、世界の体系を律さんと愛を仮定し、それぞれに耽った、純白の時代。その産物として、若し私という存在は世界を愛しているのであり、またすべての愛はすべての愛に応えるべきだと信じて、他者の愛情は自らの愛情を喚起し、相互に感応して真実性を究めるといった、バカげた妄想を尖塔に掲げたことがあった。

 腐った尖塔だ。無関心は放っておけば次第に憎悪となる。善悪と賢愚を律し、それぞれは互いを蝕む。心は細石となる。時空はすべてを風化させ、滅びの体系を律する。それが世界の秩序である。若し、純愛によって育まれた世界があるとするのなら、それは絶えず行われる好意の交換、互いにとって何らのリスクも挟まない、好意を無関心によって希釈した液体の粘膜接種に他ならず、柔皮という柔皮はそれを労るヴェールによって護られているに違いない。無関心を貫くために、好ましい存在であるために、我々は愛情の限度を無限に細分する他ない。アキレスが亀に追いつけないように、愛情は真の愛に到達することはない。(終了)

 

 何度朝を迎えようとも構わない。ただ夢の断続は耐え難いのだ。わたしが何度何度も寝てしまうのは、この凡庸な現実よりも夢の世界の方が心地よく面白いからだ。そうして、突飛な夢を連続して見る。続きを気にしてまた眠る。本当に気になるのかは別として、わたしは何度も眠り、その度に夢を見て、違う夢も見て、何度も、何度も、凡庸な現実に、夢という絵の具を重ねて塗る。この平凡を覆い尽くすように、重ねて、重ねて、重ねた末にぐちゃぐちゃに滲んだカンバスと、朝靄。わたしはこの荒唐無稽さにおいて、夢と現実とを融和させ、日々のそれぞれに折り合いを付ける。夢と朝靄を綴る。