モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

無題

 微塵も課題を進める気が起きない。提出期限は二日後に迫る。現実が迫る。いよいよ逃げられなくなる時が来るのに、この五体は動かない。参ったものだ。この期に及んで文章が書けなくなったか。ただ一個、無体な趣味として築いたものが崩れたのか。信じたくない。ヨルシカのことでも書くか。先だってヨルシカのライブ配信があったことでも書くか。それくらいなら、書ける気がする。

 「前世」と題されたライブ。きっと何がしかの意味は含まれるのだろうけど、「負け犬にアンコールはいらない」にそんな楽曲があったことくらいしかわからない。全17曲、繋ぎのイントロを除けば14曲。5枚のアルバムから平等に、ということではなく、人気らしき楽曲を選り抜いているのだろう。故に外さず、磐石の一手が施されたのだろうと個人的には思っている。だからどうということはないし、何ならば善かったというのもない。だから、「前世」と題され「冬眠」に幕を引いた舞台に一個の整合性を見るのも、単なる幻覚に過ぎない。

 それぞれの楽曲は特別なアレンジが施されていた。それは、我が掌中の普遍から逸し、舞台という特殊の場に相応しく飾られた諸々を見ているようで新鮮味、これはある種没現実性の乖離感を得た。俺が普段から親しむ彼らから、親しみだけが除去されたような感覚はどこか淋しげでもあったけれど、ただそれ以上に美しいと思えた。二者のいずれが善いという、そうした邪悪を差し挟む余地もないくらい、瞭然と美しかった。

 前の記事は実はこのことを言っていた。「星辰の許されざるところ」とは可変性であり、この舞台において様の変わった楽曲のことを言った。幾許の時が経った。曲さえ老いるほどの日月を経て、落屑したその質量を許さでは居られず、俺はこの変化を受け容れたのだった。人は違和を泣くけれど、それは悲しみがための落涙ではないのだと知るならば、涙の意味するところが、いつか痩身のすべてを枯らすときまで泣き続けようと思える。

 「言って。」「ヒッチコック」この歌声に、確かな岩盤の摩耗を感じた。あの未熟未分類の声は今や失われていた。あの日、あの人生最後を憂う少年/少女の背は、かつての背高草を既に跨いでいる。光芒を掻き分け、身に落つる影はずっと遠い未来まで伸びているかのようだった。空いた穴の在処も正体も探すことも、最早ない。それに、そうした時の順行の云う成長だとか、あるいは老いだとか云うのに、何故か淋しさを感じずにいられない。きっと、得るものと失うものが等量だったとしても、俺はずっと喪失を、喪失という事象を捨てることはできず、暗澹と淋しいまま、この昏き影を曳航するのだろうと思われた。ゆえに、こうした虚影にも惑わされ続ける。虚偽に嘘を翳し、自家薬籠中の毒に魘され続けるのだ。

 「花緑青と云うのは、毒性の人工染料だ。」

 エイミーの呪詛。エルマの贖罪。穴の空いた泥棒。ヨルシカの全景「前世」。歌は瞬間にしか存在せず、ともすれば、瞬間を失したあらゆる楽曲は、後に死骸を遺すばかり、遺作として、その今際を封印する。ある人間によれば、そうした不変をこそ、「前世」と呼称するのかもしれない。あああるいはこれも、ただの幻覚に過ぎないのか。しかし毒よ、今だけは麗しい幻を見せておくれ。