モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

創作

創作はいつからあったのか。宇宙の誕生からか、地球の形成からか、あるいは生物史が始まってからか、あるいは、哲学が発露されてからか。いずれにせよ、創作は確かに人間の傍らにあった。それがいつからかなどというのはどこの誰にも分かりやしない。

それは作者の誕生とともにあったのか。芸術と作者の関係性は常に語られてきた。その両極を結ぶものが創作であった。ただ徒な審美ということではなく、作者もいなければ芸術性もない、そういう創作が、この地上に溢れかえっていた。創作が作者の手を離れること、それは近年インターネットのうえで起こった。

AIイラストに作者はいない。それを出力するものがいても、そこに概念を語る哲学はなく、果たしてそんなものを創作と呼べたのか。しかし、まったくの白痴が、作者のあるものと、ないものを見て、その両者を分別することができるのかというのもまた、分からない。

確かに、創作は人類の傍らにあった。描画、音楽、文章、劇、建築、確かな歴史とともに、悠久を願われて、培われたはずだった。

当初の想定では、AIによるイラストがそれを脅かすことはないと思っていた。ただ想定より白痴な恥知らずがこの世には多かった。良ければ良いという、短絡的で、利便な発想をするものが予想より多かった。

芸術は消費されるものになった。見たいと思うものが瞬時にアウトプットされ、見事な現実として眼前に現れるようになった。我々の評価は、彼らの悟性を通り越して、その実用性に向けられていたのである。大量生産と大量消費の概念が、芸術の世界に流入するようになった。

別にこれは今に焦る話ではない。古くは活版印刷の時代から既に起こりえたことだった。ただその時代はまだ救われていた。誰もが良識をもっていた。機械に人格はなかった。そこにはまだ作り手がいて、そこに人格が見えた。

では、AIイラストに人格はないのか。それもまた不明なのだ。それを出力するものには人格があった。ただそれを作者と云うには何かがおかしかった。

創作は無体物である。我々が手にする創作は、哲学の化体に他ならない。即ち、文字であり、絵であり、また音楽である。作者の持つ根源的な哲学が、たまたま絵という媒体をとったに過ぎない。そこには作者の素養が関係していた。作者のとり得べき方法こそが、創作の本質であったのだ。

AIに人格はない。AIのとり得べき手段とは、その悉くである。素養などない、SENSEなどない、哲学などない、そういうものをわたしは創作と呼びはしない。