モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

少年を追って

 少年よ。その幼さも、幼いが故の抵抗も、今では泡沫となって消えている。期することさえなく、ただ緩やかに、我らの希望は蒸発した。我々は敗北した。少年、この、或いは敗北とさえ呼べぬ雪辱をどう思う。どう、思うのだね。

 ある昼下がり、親の部屋を訪ねるとそこには少女がいた。少女は一糸纏わぬ姿で仰臥しており、面に焦燥を浮かべていた。私は、単にそうした状況に戸惑い、夙に部屋の戸を閉めた。その少女には見覚えがあった。黒髪、刹那でさえ見誤ることのないその艶は浅き経験において唯一無二のものだ。加えて、彼女がその事実として妹である以上に妹だという直感。最早間違う余地の無い彼女は、つまるところ月火ちゃんだった。阿良々木月火阿良々木暦の不貞を受けている最中であった。私が見た光景とはまったくアニメであり写実でない。私に写実の見覚えはなく、アニメの視聴歴しか存在しない。現にその化物語だなんだの回には心当たりがあった。しかしながら、私は恍けることが好きだから、それでもって父をからかったのだった。

「テレワーク中でも如何わしいアニメ見よんやな」

 父は失笑といった具合である。その失笑の加減がすこし残酷にも見えたので、いい加減に揶揄も止めにした。

「いや扉開けた途端、裸の月火ちゃんがおったからな」

 私が事情に通じることを明かし、父の嫌疑を払拭し、化物語という悪戯な作品に責めを移したところで、私は内々に得も言えぬ不和を生じていることに気付く。

 世間にあれば体面があるように、私は世間に見せる自己の体面を丁寧にコントロールしてきたつもりだった。常に自己が誰の前にあるかを念頭に置き、その次第によって会話も所作も変えてきたつもりだったのである。しかし、先の私は何故かそうした必要の所作を失念しており、あろうことか偉大な親の前で、架空の娘を「ちゃん」付けで呼んだのであった。

 親は決して峻厳という性格でない。しかし、そこは問題でなく、私が誰にどう見られたいのかというところに問題はあった。私は誰にとってもキモ・オタクでありたくはなかった。その中で、気の許せる人間を前にすればキモ・オタクに転じたが、その範疇に親まで許した過去はない。これを恥じるのには謂れの深い理由があった。

 私が過去に誰かを嫌ったとしたなら、それは往々にして兄だった。我が幼きは、兄の一挙手一投足すべてに辟易していた。それは、弟がゆえの対抗意識と云うよりかは、ただ単純に人間としてその不始末を嫌った。弟として、より近い人間として兄の所作を見ると、粗暴、短気、無思慮、無知と惨憺として嫌気が差した。何より立場において劣後する事実が厭われた。

そういう人間が、そういう奔放から、極めて無思慮に架空のキャラに対し「ちゃん」をつけて呼んだのである。実直に言ってキモかった。私にキモがられる可能性すら予想しない無思慮ぶりにも驚いた。遮二無二キモかったので私は絶対にそうならんつもりで生きてきた。だが気付けば、私は大抵のキャラをちゃん付けで呼んでいた。余人をちゃん付けで呼ぶ理由には詳しくなったけれど、そうなった瞬間だけは依然として定まらなかった。

 今でも言うように、私は女々しい男が嫌いである。何かと「お」を付けて言う人間が嫌いである。例えば「おなかがすいた」などと言うのは最悪であり、男なら「はらへった」と言え、という不変の規範が内々に存在した。思えば、私が余人に「ちゃん」を付けないのもそういった理由から来るのかもしれない。

 小学校3年だかに、他人への呼称を重んじる教育が為された。〇〇くん、〇〇ちゃんと呼びましょうという規範は私にとっての腐敗を意味した。そうした状況に遭っても、依然私は男女不差別のもと粗野を貫き、厳然とした思想規範を確保していた。以降、私は他者に対する慎みを持たぬまま、小学校を修了した。

 「ちゃん付け」でなくとも、他人への呼称を重んじはじめた瞬間の、最古の心当たりはバイト先である。そこでは関係性を規律するために、同期を「さん」付けで呼んだ。この「さん」でさえ、他人への尊重ではなかった。関係性の規律とは、正しく言えば関係性の拒絶であり、無関心を許す方便に他ならなかった。私が「さん」を付け敬語を発する限り、同僚という関係性が変容することはなく、絶対相互無関心を形成するという意味での規律だった。そうした呼称を通用する人間が、何かに対して「ちゃん」を付けたとして、それが架空のキャラだったとしたら、それはあまりにも終わっているしキモすぎる。そして事実、私は終わったしキモイ。少なくとも、それに気付かではいられなくなった。

 現実の人間との関係を謝絶し、架空のキャラとの関係を構築しようとしている。私は、ただ愛ある言葉として〇〇ちゃんと囁き、その受益を恣にしようとしている。それに留まらず、私は他人の目も憚らで自己の醜い内臓を現すようになった。

 私はお終いだ。少年、私を導くもの、過去よ。願わくは、その手で全てを救ってくれ。

 

 

〜少年を追って〜

 図書館に訪れるのは実に数年ぶりである。確か高校生の時に、脱水に苛まれ給水器に転がり込んでそれ以来である。本を借りるという正式な利用ともなると十年は下らない。

 時を経て色々刷新されたかと思うとそうでもなく。外装は無論、内装さえ幼少に媚びり付いた記憶とまったき合致をした。それは懐古の情念を沸かせるに充分であり、しばしばその潮流に浸っていた。

 利用方法はそれとなく覚えていた。端末をぶっ叩いて目当ての本を検索し、管理番号に従って本を探す。何も変わらない。端末の反応が悪いのさえ変わらない。ただ私だけが余計にデカくなった。大人になったのだろうか。

 開架はこどものスペースとおとなのスペースに隔てられ、前者では主に児童書を扱い、後者では文庫等を扱っている。幼少相応しく頻りに利用したこどものスペースには最早行くことはない。あの日、重々しくて嫌な雰囲気があったおとなのスペースに本を探しに行く。一抹の不順応はあったが、それを噛み締められるくらいの辛抱は付いたらしい。

 上階は更に厳粛で、一般利用の勉強スペースと、借出禁の参考書が集積されるスペースがある。時期だと言うもんで勉強スペースは真剣な顔の学徒が黙して集う。その厳かたるや、何かみてはならぬものをみた様な気さえする。多数の意思の集積地であり、不安と絶望と焦燥とが変じて毒気がする。片や参考書スペースはあらゆる所持物の持ち込みが禁止されており、聖域といっても過言でない。毒気と神聖の入り交じる具合の二階は、非常に混沌としており、折り返す階段はこれらの潮流を捻じ曲げ遮断するための措置かと思われた。余談、二階に行った理由は、本学図書館の構造として二階を訪ねることが多かったためである。

 結果として本は貸出中だった。貸出予約として個人券を作り、ホームページにメアドを設定して空手で帰った。ただその掌中には一握の懐古が握られていた。ある思い出の残滓であった。こどものスペースで本を読んでもらった思い出、古中生代の生物を扱った児童書を読み耽った思い出。ある一端一端にそういうものが挟まっている。個人券は昔、みずいろだった。作りも簡素で、単にラミネートされただけの柔い券。それが再発行されれば、しっかりした三枚袷のカードになっていて色もピンクだった。個人記録も更新され、自宅の電話ではなく俺の携帯に掛かるようになった。少年の影に覆い被さるような感触。手放し、帰することのない過去。夏休みの終わりに溜まった宿題を消しに行った。それでも尚集中の足らぬ私は、同室の、いくつか齢の上の女性を見てスケッチしていた。宿題は完遂されず、下手な落書きだけが残ったワークシート。休み明けにしらばっくれることを決意した瞬間。そういった記憶が日月の順行によって摩耗し、空間に漂う残滓となった。ただでも満足だった。一握さえあるのならそれで充分であった。

 その日、私は少年と家路についた。