モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

藤田さんってあんま怒んなさそうっすよね

13:30より父親が会議を始めるらしいので、家を出てきた。コロナとの付き合いが問われる中で、御社は期限不問のテレワークを推進したらしい。父は、平均して週の半分は家にいる。今まででは考えられないことだ。これにより、俺は擬された一人暮らしを失ったし、父親と会話する機会を得たとも言える。やはり、どっちが良いとも言えないし、押し並べて現状が健やかなれば、嫌忌する謂れもないわけで、でもやはり、ひとつ屋根の下に集う二名の男が、片や実存に声高き社会人で、片やならず者のろくでなしとなると、やはり当方は手狭である。よって、社会的価値の圧力に敗け、巣から追い出されたわけであるが、このとき父親の発した言葉が「悪いな気遣わせて」というものだった。言うまでもなく気を遣ったものではない。言うなれば、俺は俺を気遣って家を出たのである。だとするとあれは単なる便宜であって、それ以前に、昨今のドコモ関連の預金どうの問題を聞かされて「記帳行った方がええで」諭されたものであるから、口実にも事欠かなかったし、現に俺は神戸の辺鄙にて久しき電車の揺らぎを感じて心地がいい。だがやはり、親の裡中に息子を追い出す意が潜んでいたのだとすると、少し物悲しくもある。ともすれば、昨日の坊主の発言が思い起こされた。あれも一定の冗句に違いないが、それでもならず者の未来がそこはかとなく形成されつつあるこの身においてはそれ以上の諌言として刺さらざるを得ない。「子は親にとって負担である」男児であれば尚更だ。それは昔から訊かされてきたものでもある。それでも我が両親は俺に親切であった。学費の負担も四割。ありとあらゆる出費をお願いしている。そこに甘んじていた事実は否定できない。愈々という時勢になって、俺はそのことを如実に感じるようになった。俺という人間の理非を問うている。俺は親の果実である。それを捨象することは出来ないし、また依然として、どうにもならないことのようにも思えた。

どうにもならないこと、神戸まで出掛けたはいいが、無聊は無聊である。だから、何をしようかというときに、本を二冊持ってきた。電車に揺られながらこれを読もうと決めていたのに、いまは何故かこうして文章を付けている。本を読みたくないのか、と言われてもそんなわけないし、何か後ろめたい気持ちがあって本を開かないのかと言われたって分からない。ただ、栞を失くしたことを思い出した。その栞は、昨年の師走だったかに、友人と京都へ出掛けた折に買ったものだった。ミュシャ展。俺はあまりミュシャ作品とは昵懇でないけれど、その美くらいはどうにか分かった。あの時の俺は実存に餓える時期にあったから、とにかく何でも土産を欲しがった。そのときにあったのが、ミュシャの絵を投写した栞だった。今でもあの荘厳な装丁は容易に思い起こせる。失ってなお輝いているのが皮肉に過ぎる。あるいは、失くしてさえいないのかもしれない。どこかの本のどこかの地層に眠っているだけかもしれない。俺がとうに読破を諦めた本の固い地盤に埋もれただけかもしれない。そうして、その輝きを、誰に見られるでもなく発しているのかもしれない。それがあんまり憐れに思えてきた。いま、その当該友人に借りし、本に挟まっているのは、阪急西宮北口の時刻表である。本来、そこに挟まるべきものがそこになく、本来、俺が職場で活用するものが、何故かそこにあった。この世はそうした意味不明でできている。少なくとも、俺という人間がそうである。

タイトルは、この前いちばん若い後輩に言われた印象である。思い返せば、最近は怒りを知らんような気がした。だとて、怒りを抑える方法を知るわけではない。俺は誰にも期待しないから怒りを生じないのだと思う。人間、先ずは予想して、それが裏切られたときに驚愕なり憤怒なりといった感情を起こすものだ。俺はその、先ずをしない。予想とは期待だ。期待しなければ、あらゆる不合理を許容できる。あらゆる意味不明を許容できる。それはある便宜である。俺という意味不明をこの世に繋ぎ止める楔であった。