モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

ていうか本当に楽しかったのか

 非常に悪辣な話、最近職場の先輩に唆されて恋愛の真似事をしている。

 良い気はしない。ただ、悪い気がするかと言われるとそうとも言い難く、なんだかごく一般的かつごく平均的で、何か楽しげなことをやっているという感覚がぼんやりとある。悪い気がしないのはそれが即ち悪行ではないためであるが、良い気がしないとは何事かと思われ、即ち、先輩の曰く“世で一番楽しい”と称される恋愛なのであるが、そこに特別、達観めいたものは何ひとつとして感じ難いのであった。故にこれは恋愛の真似事、訓練ないし模倣なのであり、本意気はどこかに失せてしまった予感が幾つかの事案を経て既にある。衆生遍くはこれを強いて何事かを成すのであるが、わが胸裏の漠に何をしてやればいいのかが依然甚だ疑問なのである。

 第一にまず数多の詭弁を閉じて言わせしむるところに、まず私はそうした機会を現実に楽しんでいるのかを問うべきに違いない。今日のを挙げてみれば、それは単に嵐山へ行ってほんのちょっと観光したのち、昼食とも言い難い和菓子を腹に蓄え、二三時間を桂川の石堤で持て余したに過ぎない。とはいってもやはり書き手の領分というのは恐るべきである。現実には、集合時間より少し早くに集まり、嵐山までの道中互いに知らぬことをひけらかし合い認知を深めたところ、やや秋の薫る嵐山では、まず京友禅の耽美なるを語らう。京なるは寺社の偏在し、その庭園の紅葉といずれなる落葉に喜憂しながら、竹林の衝く小径とその静謐なる生命の営みを愛で、時には道を逸れ、有難い寺社に着いては流れながらも参拝した。嵐山下る町並にどこか憧憬を覚えるのだろう、帰途はやや遅くふらりと茶屋に入っては無駄に団子を焼いたりして、わざわざ遅滞を嗜んだりもした。浅いながらされど秋の夜は長く昼は短い。桂川の石堤は陽光に煌めき、金に繁吹く。水鳥の戯れに、あれは鷺だあれは鴨だいや鵜だなどと云々やる松の木陰は、枯れた松葉が散見し、松葉相撲も取り放題だった。懐かしい遊び。やがて山の辺に日は隠れ、森から鬱蒼とした風が吹く頃、我々は嵐山を後にした。電車に揺られ、眠い眠いと喘ぎながら、日の眠るまで共にあった。

 あれもそうだがこれもそう。何かを手にしたようで何も手にしてはおらず、ただ漠然と、ある意味では淡々とことを済ましたように思う。これからどうすればいいのか。私にはそれが分からない。友情も、愛情も、嘘や真というなかれ。

 私にとっての本日とは一体なんだったのか。一人帰りしなで何かイライラして辛いラーメンを完飲し、腹を壊した。