モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

10月30日(水)

あれは未明だったか。しかし家族のうち、誰かは既に朝を始めていた。私はその支度の音で起きたのだった。誰か、と言うが既に見当は付いていた。それは未だ起ききらぬ脳であれども簡単に判じることのできるくらい充分に予告され、また軽率に扱えるものでもなかった。
しかし、私は再び寝入った。というのも、平生家族の誰よりも早く起きる私の性質は、生来より意固地であり、理由もなく、己より先に、部屋を占める朝の気配を誰かが堪能しているのは、非常に忍びなく思うのであった。未明であれ、脳が起ききっておらぬのであれば、それは夢の延長と解して等しいわけで、私は事実を葬り去ることにしたのだった。
次は父親に起こされた。父親は数日母親が居ないことを私に告げたけれど、それは予め知らされていたことであって、私にとってはあまり価値のないもののように感じた。だが、父親の極めて親らしい行動を見るのもまた久しぶりであったから、かなりの懐かしみを覚えた。そうした感触を無価値と言うのは少し憚られるような気がした。父親が出ていき、暫くして両親の部屋で目覚し時計が鳴った。既に寒さを感じる時期にあり、8時間をして蓄えた熱を手放すことを惜しんだ私は、結局、すべてを忘れたいような風を装い、また眠った。
自然に起きたのは、第一の眠りから6時間後である。誰もいない部屋から、いつも味わう誰もいない朝の心地が確かにした。通常通り、朝ご飯を終え、歯を磨きまた布団に入った。布団は冷たく、己の体温を情け無用に奪ったためすぐに仕舞った。まだ夏用の敷パッドを噛んでいた。結果、私は寝転ぶというその場しのぎを失い、しばしの手持ち無沙汰に陥ったところ、父親から電話が掛かってきた。洗面所の扇風機を止めろとの要件であり、同様の連絡が不在着信で二回、メッセージにも一つ残されていた。洗面所で扇風機は回っていなかった。
手に取ったついでにTwitterを開き、友人の少ないタイムラインを眺めた。そこには相変わらず何もなく、気に入った絵数点にいいねを付けてアプリを閉じた。そうして天井を見やったけれど、そこにも何かはなかった。仕方がないから視界の中で何かを探す。すると、太ったジュンク堂の袋がすぐに見つかり、それを買った時の記憶を辿りつつ手に取った。3日前の痕跡である。現れた月刊電撃マオウの重みが記憶の中で一致した。表紙をひと撫でし、分厚さに慄いて床に置いた。封は切られない。代わりに昨日友人から借りた文庫を鞄から取り出した。数頁捲った先に記憶の残滓を見つけ、そこから読み始めた。暫くして一旦本を閉じ、立体的な時間を演じるべくYouTubeを開いて、或るバーチャルYouTuberのアーカイヴを、あくまで背景として流した。また本を開き、記憶の残滓を見つけ読み始めた。こうした所作は、時の経過を明確に感ずる手段としても有り得る。例えば、私の場合、アーカイヴは概ね1時間程度で終わるものと知っていたり、場合によってはYouTubeに提示された時間的代償を凝視することもある。それは自己のうちで確立された、時の経過を正しく感じる少ない方法である。ただこうした、所謂マルチタスクの性質を持つ所作は、如何せん図と地の概念に悩まさせられざるを得ない。今回の場合は至って例になろう。特に、友人から借りたというのがみそであった。確かに、その受取を自らの意思で選択したのは否定しようもないが、この意思の介在する余地は最後の段階にしかなく、いわばイエス・オア・ノーにいうクローズドな質問なのだ。そうした選択肢に乏しい回答が、複雑怪奇な意思に果たしてそぐうものであるか、という問に対し、私は「稀に」と答えるしかできない。こういう考えを持ったものが友人の薦めと自らの決定のどちらを優先させるかは言うまでもなかろう。ただ今回の苦悩は、決して図と地というそれだけに留まらない。かといって些事ではあるけれど、私は数少ない友人に対する義の間に再び悩んだ。つまり、バーチャルYouTuberの動画が非常に気になっている中で、ただ友人との義を果たす為、必死になって活字に齧り付いている状況に陥った。女の甘美な誘惑に惑わされる友情の様な、といえば脚色に過ぎるが、私の心境は確かにそうだった。やがて、そうした状況に陥ったものの常として、私はどちらも選ばず、どちらともを棄てる選択をした。一応、難を逃れた私は、凝りもせずTwitterを開いて、改めて何もないことを確認したのち、強迫観念とニヒリズムについて空無な弁舌を振り回した。どうでもいいことを言って気を紛らわせていたら、世間は昼を迎えていた。
家に一人の場合、手間と消費エネルギーの理屈から抜くことも少なくない昼食だけれども、今日は食う気があった。というのも、母にそのことを話したら、改めて食えと釘付けられ、その記憶もまだ新しかったからだ。ややもすると水を煮がちである。袋麺を食った。この商品は、私の麺類に対する感性のルーツだと誰かに話したことがある。依然その通りであることに少なからぬ安心を抱いた。
箸を手放し、やがて手を空かせた私であるが、昼食より得た活力を糧に、極めて新鮮な心持ちで、かの重厚なる月刊電撃マオウに手を出した。本誌に掲載される漫画のうち、興味があるのは一作品だけであるけれど、貧乏性の私はおよそ900円の価値に対し大らかにはなれずにいた。だからといって全作読むわけではないのだが、その一作読んで終いとしてはとても落ち着いていられない。よって計5作ほど読むのだが、かかる数字が900円に相当かといわれると判じかねる。言ってしまえば、満腹になって読み辞めることが多いのだ。日々の体調が価値を定めているので、相対性の下に判断せざるを得ず、よって結論に正解などあるまい。そもそも、この購読は作家に対する投資の意味が強いのだから、私が何か利を得ようなどというのは笑止千万に尽きる。余談、こうした感性を書きながら思い出せたのは幸運だった。さもなければ、買い物への不信感で夜を費やすところだった。漫画によって充分な満足感を得たのち、付録を然るべき友人に共有して本を棚に仕舞った。読んだ時間も情報量も少ないのに、これが最も幅を取っている。その様は何かに向けた皮肉の様に思えたけれど、あまりはっきりとは分からなかった。
友人に共有したついで、持ったスマホYouTubeを見始めた。実は、YouTubeを見ている時、私の脳は記憶を止めている。その為後から思い返してみると、その時の圧縮率に驚愕するのだ。ここからここの記憶はない、されど時は進んでいる。人生にあればこうした事態は多いだろう。そして時の相対性を知るのだと、私は誰かに話した気がする。私の場合、記憶は止めていてもYouTubeが記録しているので問題がない。私は確かに存在し、動画を見ていたと言える。
窓より入る光量に陰りを覚えたので夜の到来を知った。動画をキリの良いところで止め、洗濯物を取り込み、部屋干ししてあった昨日の洗濯物を畳む。食器を洗う。そのうち、今晩母が不在のことを思い出してTwitterに飯の誘いを投じる。何が食べたいかを考えながらまたYouTubeを見始めた。
ジュンク堂に本を買いに行かねばならぬ用を思い出し、飯のついでと画策するも、その時初めて外の寒さを知り、また備えもなく、ジュンク堂は三宮まで行かねば目当てがならず、遠出を断念したかった。けれど、未だに何が食べたいか分からなかったので、寒い中を変に長く歩いた。結局なか卯に行き着くのは予定調和であり、最初からそこを目指せば、との感は拭い去れない。そんな時間は、一向に音楽の受け皿だったとして価値を見出す他あるまい。実際、私は楽曲が終わらないため家の周りを一周することが少なくない。一般よりは肯定し易かろう。
家に帰るとバーチャルYouTuberが配信を始めたので見た。様を備えるために本を開いた。今度は栞を挟んでいた。ここでもまた先述の概念と義に悩んだ。思うに、友人から借りた本というのはいつも以上(普通の本より)デリケートだ。本を物理的に傷めてもいけないし、精神的に冒涜してもいけない。頁を捲る手は余計に慎重になる。そうした感触を抱いたのも、本当は初めてでなかった。また、懐かしい様な思いだった。そのうちバーチャルYouTuberが配信を終了する旨を告げ、私はYouTubeを閉じ、本も閉じて少し仰臥してみる。すると自ずから空想に耽ける心地になった。天井に何かがあるような気がした。栞を3分の1程の位置に滑り込ませたところで、どうやら、これはとてもエロい本のようだ、と下した暫定の結論を考えてみる。天井に、この本を薦めた彼の顔が浮かんだ。いや、浮かべたのだ。そして彼の表情から意図を汲もうとしたけれど、空想の彼に応えられることなどなかった。仕方がないから目を閉じて、いつか瞼の裏に描いた完全の私を暫く眺めていた。
「澁澤龍彥を読め」との囁き…それは他でもない彼から発せられたものに思う。当座、彼は事実を認めなかったが、無理もない。それは無意識のうちに起こったのだと思う。ああ、確かにかれは「澁澤龍彥を読め」と言っていた。
事実を申し上げると、私は本書に合わない。合わないというより、私にとって未知未開拓分野の学問書のふうに思え、すっきり読み下すことのできない点が幾つかある。エロが人間、ひいては生物の根幹たるは充分に認めよう。しかしながら、私はかのエロスに対し不義を働いているのだ。それは、ある日私のうちに発生したエロが、いまだ極められたものでないにも拘らず、爾来その洗練を怠ってきたことに見える。私にとってエロが、如何に生物の核心に君臨していようとも、実際は低俗に見えて仕方がないのだ。そして、それを論じることもまた、自らの格を滑落させるのに拍車を掛けているに過ぎないのである。これは、別段徹底的な教育を受けたわけでなし、或いはそうした制圧を逃れ得たために起こった価値の飽和であり、ある種学習された無力感のような状況のために生まれたと推察する。その後また、法学を学ぶ中で罪刑法定主義の価値観、思考まで罰せずへの共感が尚更価値観の洗練を妨げたのであろう。とかく、私は無勉強なうちからいきなり高尚な学びを聞かされていたのだった。
確かに、この本に学ぶことも、共感することも多い。だがそれは、脳髄を射たれども、半ば硬質な皮膚にとっては小さな疵でしかない。だから私は、その衝撃に対し大きく身体を震わすこともなく、あるとすれば、感覚の中で、最も昂奮とは縁遠い、知的好奇心という非骨肉の器官が生む内なる捻りであり、私は時にじっと耳を潜めているのだ。そして澄明で美しい鳴りに気付き、無勉強を恨む心持ちになる。豚に真珠という諺が酷く似合っていた。
益々彼の真意が気になるところだが、やはり判然としない。耽美派の彼がついに内側を顕にしたのだというのが適当だろうけれど、まだ半分も読まないうちから共感性を差し出すのはあまりに尻軽で情けない。
目を開け天井を見る。余計な光が増えていた。父が帰ってきたのだ。
その後は風呂に入り、歯を磨いて寝た。中途覚醒し、自慰をして再び寝入った。数度覚醒した中のどれかで「今朝と何も変わらない」と言ったと記憶している。