モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

余命一年


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戌神ころねのメンバーになって1年が経った。その事実をどうやって受け止めればいいのかわからない。かつての私であれば、きっとそうなるだろうことは想定していて、だから現状何ら不自然もなく、疑いようもなく、行為或いは結果の、意味のある事実として、簡単に受け容れられたのだろう。一定の持続が、ある感情の証明となり、費やした金の数だけ、価値の存在を認め、それを信用して、いまだ捉えどころのないそれを、或いはわがものにしたと、自尊心の恣大いに喧伝し、胸腔を張り、止まざる肯定感のもと、靴を鳴らし、風を裂いて、明日を生きるなんてことも、或いは有り得たのかもしれない。そうなればきっと、それを幸福と呼び、愛しさえしたのかもしれない。例えそうでなくとも、少なからず、幸福の意味については理解しているに違いなかった。だからこそ、現状の、却ってその価値の露もわからぬ様は、以前立てた計画の、あらゆる失敗を意味するのであった。

 私が彼女を知ったのは、少なくとも1年より前で、若しくはずっと前から、その姿かたち、それと声くらいは知っていたのかもしれない。見始めた当時の印象は、直感めいてかわいいというそれだけであり、何ら深い造詣も、詳細な解釈もなかったと覚えている。そういう存在を、私はかつて見たことがあった。だから彼女のことは「花」と表現した。時に、「太陽」「輝き」と訳し、またある時には「雨」と訳せば、一方「夜」であったりもした。そういった、普遍的で、だからこそ分かり易く、真実に最も近い美として、彼女のことを捉えていたと思う。そういうところに、ただ単純に、愚直に、一方的に惚れ入って、ひたすら鈴の転がるのを聴いていた。鈴の聞こえるうちは有意義な時が流れ、不満も過不足もなく、空間を享受し、宇宙が充ちるのを感じた。水甕──丸みと、滑らかさ。深く冷たく、二度と戻らない。幽邃なる瓶底で、月面の舞踏を踊り続ける──そしていつか、暗い水底で眠りに着き、私は二度と、動画を見なくなった。

    動画を見なくなったことで分かったことが幾つかあった。何度も何度も反芻し、一定の後悔を伴って決心を促すのであるが、ただいつまで経っても実行は出来なかった。価値というものがいずこに宿るか、行動なのか意思なのか、自分か、自分のした行いか。結局のところどう置いても恐ろしいのは変わらなかった。私の信ずるところに価値があれば、私の信じないところに価値はなく、価値観を全うすれば自縄自縛の偏屈に陥り、他を否定して自尊に秀でるなどという行為に、果たして真っ当な価値があるとは思えなかった。他方、自身に価値の所在を求めないなら、あらゆる自己の行為は何をも意味しなかった。そうやって判然とせぬまま怠惰なだけ長く過ごした。そうやって迷うことだけが唯一の救いだった。

    初心に立ち返ることは出来ない。なぜ、かつての私がその無為を知りながら敢えて自らの愛を他の愛よりも目立たせようとしたのか、それはどうやったって知ることが出来ない。その何に意義を見たのか、その何に目的があったのか。遠境の献立のように、今の私には全く知り得ない事情であった。ただ献立という普遍を通じてしか存在を看破できず、普遍ならきっと価値は見出せないのだった。私は凡百だったというそれも矛盾という他なく、他より秀でる意義を失すれば本懐が崩れた。あるいは、本懐は最初期より死んでいたのかもしれない。そう言うのは却って納得が出来た。

    原初は必ず意義や価値がある。行動に移すにはその正誤に拘らず必要だからだ。だがそれらも沙羅双樹の華の色であった。育む育まずを問わず逓減は必至であり、潰えた頃には平凡に死ぬ。かつての意義も、かつての愛の証明も、付随する幸福も、すべてが生者必滅の理を知り、私のメンバーシップは生まれた時に死を予定したのである。そういった定命の告げるところに意味があるとするなら、私は今ここで、このメンバーシップを辞めるべきかもしれないと甚だ思われるのであった。


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