モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

ヨルシカを聴く理由

私がヨルシカを聞く理由は、なんとなく、いい死に方が出来るかもしれない、と思ったからだ。
別に根拠なんかない。この歌が何なのか、私には分からない。どういう人間に相応しいのかも、どういう接し方が正しいのかも分からない。或いは、どうでもいい。
これは、私の中で、好きの言い換えでしかない。好物は死を彩る。棺桶に花を添えるように、墓前に酒を置くように、死は、好物の隣にある。
人生を語るとき、嫌いなことを持ち出す人はなかなか居ない。自分の人生は報われたものでありたいから、なるべく暗い面は削いでおくものだ。一般的には忌々しくても、ある人にとって好きなものであるなら、それは人生の傍に立つ価値がある。人は、好きなもので人生を彩る。人は死ぬ。その瞬間すら、好きなものは傍にある。
だから、いい死に方というのは、いい生き方のことだ。生と死の弁別など、何の意味もない。違いなどありはしない。喜びも悲しみも、或いは同一のものかもしれない。祈りと呪詛が同質のものであるように。
白は、友人によれば死の連想なのだと。無機的で、冷たく硬質な、それ自体は意味も持たず、具体物の裡にある非存在であり、盲目的で清らな色だ。この歌が好んだ色なのだ。
人生は余白と想像力さえあればいい。日記を付けるなら、辛いことがあった日は空けておく。後から捏造された幸福を書き込めばいい。強いて幸せを望むから、私はそうするのだ。在りたき日の幸福が現の私を生かしている。それ以上は望むもなし。