モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

真実は傍にいないことが多い

言葉には限界がある。言葉には限界があるのだ。だから足りなかったり逆に多かったりする。言葉は道具だ。道具を見て記憶が返ることがある様に、言葉は多弁だ。言葉は多弁なのだ。だがそれを、飽くまで多弁なその全てを、あるなしを確と判じて正しく認容できる人間は果たして少なかろう。

人間はその限りで自らの、或いは他者の気持ちに臨まねばならない。


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発話は最も多弁だろう。人間は音を発せられるが止めることはできない。つまり、あらゆる発話には残響が伴う。この残響こそが発話を多弁たらしめる所以なのだ。
場合によっては、そうした残響を重んじる人間がいるだろう。自己であれ他人であれ人を表すとき本当に大切なのは選ばれなかった言葉だ。選ばれなかった言葉には相応の理由が付されている。普通に考えれば表現として醜いとか、くだらないとかの不適切が主だ。しかし、人間の本性について考えてみれば、頭に過ったけれども見逃した言葉には大層意味があるように思える。特に手紙とか、ツイートにおいて書き直すという行為は本性を隠すことに違いない。単に誤用ならまだしも、同意義の間を往来し結果至ったある表現は、或いは全く無意味かもしれない。
でもそうした媒体に於いては、表現の形骸化を隠すことができる。自ら言わねば誰かに悟られることもあるまいよ。私は端からこの表現を用いたという顔をしていれば良いわけだ。いやそれ以前に、その表現に至るまでの道、時、労力が無駄だったとは思うまい。寧ろ何か頂上にでも至ったのかという達成感に包まれている場合もあろう。麓の景色などとうに忘れて、絶頂よりの景色ばかりが登山を物語る。山に登るという意思はどこかで頂上を立つという意思に代わり、時と道の険しきに擦られ、やがてアドレナリンが湧出し脳が侵され、いつの間にやら芥と化しているわけだ。
山に登ると頂上に立つのどちらが表現として優れているかは分からない。ただ目的を異にする。思うに、山に登るとは登山の全体を指すのに対し、頂上に立つとは登頂という事実それ自体で道程等を度外視するものだ。無論、これら目的の優劣も私は知らない。知らないが、頂上に立つという意思は淋しく感じ入る。
だから、私に言わせれば表現を凝るのは却って愚かだ。



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引越しする友達に手紙を送ったんだ。
思ったより時間が掛かったし、文字数もそこそこだ。
でも…あ、いや、だからか、
僕はあの手紙に自信を持ってるよ。
見てよこの書き直しの束!
綴じたページ数より分厚いでしょ?
彼の心に沁みるような表現を探して選んだんだ。
意匠もした。
だから文字数が増えたのかも笑

でも、良い。
もう会えないかもしれないし、あの手紙が僕の生き写しだ。

僕はずっとそばにいる



ってね