モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

 最近本を読んでいなくて、もう半年は経つだろうかという頃に、ようやく本のようなものを開いてみた。いや明確に本なのだが、俺の思い描く本の読み方というものを失ってしまっていて、所感として、これは読書であるのか、ひたすらに懐疑的であったために、そういう表現を用いていて、それくらいには、本に対する興味が失せている。

 驚くことに、だが驚く程に当然に、本を読んでいなくては、読み方も、書き方も忘れてしまうもので、散逸した情動も、情景も、ただありのままに書き記す他なく、単に随筆というには稚拙を極め、単に散文というには躊躇いがある。そして最早、そういう文章を繰り出すこと自体も、自分にとっては何ら意味をなさないかのごとくであり、それもまた文章というものの性質を捉えられない俺を、嘲笑うかのようであった。

 ただいまの俺に、ただいまの感情に、本というものが意味をなさない。

 思い返してみれば、最近は絵も描いていない。仕事が忙しかったからか?それもあるだろう。自分の持ってる趣味のほとんどは、気付けば自分と遠くにある。本も、絵も、映画も、旅行も、普段の俺からすれば、生活からずっと離れた場所にある。

 じゃあ普段の俺は何をしているのか?仕事をして、家に帰って、その後飯を食って、筋トレをして、ゲームをして。

 暇を代替するものがあればいい。掃いて捨てるほどの退屈を消化できればそれでいい。などと、大して感情の湧かないことをしているのではないか。無論だ。しかして、全く楽しくないわけではない。筋トレは、自己の成長を可視化する目的でやっているし、ゲームは、無産的ではあるが現実逃避の手段として有用だ。だがそれも、先述した趣味と比べて何が違うのかと問われても、ついに答えは見出せないだろう。

 便利な世の中になったと思う。そして、便利な身分にもなった。この先時間は無限にあるし、誰かや何かに頓着する必要もない。俺は俺のやりたいことに時間を使える。

 思えば、絵は、俺の人生だった。将来、絵にまつわる何かに仕えていると信じていた。それくらいには好きだった。気付けば、俺は俺の人生から遠ざかっていたのだ。

 本を読むことは無意味だと思う。昔からそうだ。知識そのものに意味はあっても、それを取り込んだだけの自分に意味はない。誰かの前で知識を披露するとき、大抵は相手の浅学さをばかにしている。物語を消費したいだとか、筆者の価値観を共有したいだとか。そういう上っ面な便宜に騙され、俺の趣味を羨んだ人間が、先後に何人いただろうか。所詮は、体験へと昇華されない文弱だ。結局そこに宇宙の果てはない。足を滑らせた猫もいない。憔悴し、死んだのは、物語の主人公だけだ。それを、文字を撫でただけで分かった気になろうというのは、甚だ傲慢ではないか。本を読んで、感想以外に何が残る。実体から離れ、呑気に巧拙や美醜を語る口に何の意味が宿ろうというのか。その口上は、何のために述べられたのか。

 絵もそうだ。絵を描くことに意味はない。絵そのものに意味がないからだ。芸術とは過程だ。だがそんなことを気にする人間はもういない。即物的な消費が世の主流になって久しい。増産され、大量消費され、余剰生産物に塗れて生きている。醜くも、それが文化だ。イデオローグは淘汰され、AIに台頭された世界では、需要の在り方が大いに異なる。どれだけ目を背けようとも、分からぬものには分からぬ。それが事実だ。芸術は、そうした事実の上でしか語れない。

 確信をもってすることと、手当り次第にやっていることでは結果の精度が異なる。実益という観点でみれば、これらのことに意味はなく、筋トレをやっている方が、時間的にも有意義なのだ。良くも悪くも、筋トレが体に与える影響を無視できずにいて、かつて、絵をやっていた時期よりも、随分真っ当な人間になったように思える。客観的にも、主観的にも、俺は正しい道を歩んでいる。なにより、そう言える自信が、確信が付いたことが、これのもたらす最大の恩恵なのであった。もう、絵がかけぬと思い悩む必要もない。存在しない誰かを気にすることも、未だ抽象を纏う心象の相手をする必要もない。凡百を恐れることもない。凡百の、その本能から逃れようともがく日々も、これで終わりだ。

本当に終わりだと思えば、きっとせいせいするだろう。それは間違いのないことだ。趣味が、俺の過去から分かたれること。俺が、過去から解放されること。その先に実益を見据えることが、これからの俺にとって必要なことなのだろう。

 もう一線も引けやしないという瞬間。