モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

ホモ・ヴァニタス

「ホモ・デウス」という言葉に見覚えのない人間もいるでしょう。そして、その内容をさっぱり知らない人間も、私を含めいるでしょう。そして、その言葉の意味を知りたいと思う人間もまたいるのでしょうね。

『ホモ・デウス』読みてぇーーー!!!
街に出ると、必ずと言っていいほど本屋に寄り、ただそこに溢れる活字から猛烈な自意識へのエンハンスを受け取って幾分か元気になる私は、ずっとこの本が気になっていました。
じゃあ読めァええやんけ、と思うでしょうが、私が自ずと購入を見送っている要素が色々あるのです。
私は2ヶ月ほど前、ブックカバーごと本を失くしました。ブックカバーも本も購入からほんの数日しか経っておらず、読破もしておりません。読み切った本なら良かったのか、と問われると決してそうではありませんが、こう途中までしか読んでない本を失くすというのは、いわばひとつの世界とその未来を失うようでもあって相当ショックでしたね。そもそも物を失くすこと自体が年単位で久しく、なんというか虚脱感に襲われて以来、本を買うことを億劫に感じていました。蓋し、その時即座に買い直しておれば、今の今まで尾を引くこともなかったのでしょうね。でもやっぱり、自分は後ろめたい過去に踏ん切りを付けるのがかなり苦手な方だと感じるので、そんな妄想は後知恵に過ぎません。
その他の理由として、この本は世界800万部(具体的にどんだけすごいか分かってない)とかいうベストセラーでありまして、これをもって街中なんかを歩いちゃうと、ミーハーに間違われかねないとか、俺がよく買う本のタイプではないとか、そんなどうでもいいことを気にしてます。

『ホモ・デウス』には我々人類がどこへ向かうのかが示されています。それは文字通り神を目指すことなのでしょう。「賢い人」は科学の発展により不死性を得、やがて「神の人」になる。
一方で、「ホモ・ルーデンス」という言葉に聞き覚えはないでしょうか。人間の本質は「遊び」であるという提唱から導かれた、「遊ぶ人」。そして、「ホモ・ファーベル」。原始的に人類が行っている「工作」の観点から見た「作る人」。他にも、「ホモ・レリギオースス(宗教観)」「ホモ・ロクエンス(話す人)」など、人類の在り方を示す言葉は多々あります。その中でも一際目を引いたのが「ホモ・デメンス(倒錯する人)」、「ホモ・サピエンス」に顕れる「理性」とは真逆の「狂気」の人類。
その実は感情でありました。つまり、理性から導かれる合理性から逸脱した反合理的所作。歓びや悲しみは遅滞を生む、遅滞を生むのは「賢い人」のすべきことではない。だが「ホモ・サピエンス」はすすんでそうする。だからこそ、これを「ホモ・デメンス(倒錯する人)」と見るしかない、ということだそうです。
はっきり言って吐きそうな理解です。この観念は「ルーデンス」や「ファーベル」ほどメジャーなものではなく、解釈の確立も成されていません。良かったら調べてみて、あなたの考えをお聞かせください。
このように、人間のあり方に対する考え方というのは多々あります。言ってしまえば、この世に存在する人間の数だけ「ホモ・~~」は存在すると思うのです。人間の多くはいつかの時期に自己定義を行いますよね。つまり、「私はイチゴが好き」と定義した瞬間からその人は「ホモ・イチゴスキ」になるのです。そして、「ホモ・イチゴスキ」はいつの間にか「ホモ・ショートケーキスキ」になり、その他の定義も含め、重なり合って複雑な人類を形成していきます。
ですが、ある日突然すべてを失う日がやってきます。「死生観」というのはやはり人類のみが持つ観念であります。傲慢に、それは我々の感情を蝕み、ありとあらゆるものに対する無気力を蔓延させます。思えば思うほど、今在る私というものが無意味に思えてきてしようがない。我々は「ホモ・ヴァニタス(無意味な人)」なのだ、と悟る日がいずれやってきます。今まで培ってきた多様なる概念を捨て去り、「死」とそれによる「虚無」を残すばかりとなった人類の姿、それはある種洗練された在り方なのかもしれません。人間が合理的判断から無駄を捨て去るように、またあるいは自然が生物を淘汰するように、極限まで研ぎ澄まされた人間としての感覚、死を知り、死を恐れ、死に立ち尽くす人間像、それこそが「ホモ・ヴァニタス」としての新たな在り方。
人類は、「ホモ・デウス」のステージにおいて「死」という概念から解き放たれ、恒久という名の神性を獲得します。では、その世界で「ホモ・ヴァニタス」が生まれることはありえないのでしょうか。いやむしろ、そういう世界でこそ「ホモ・ヴァニタス」は生まれ得ます。器(肉体)は恒久を維持できても、魂はいずれ腐り果てるというのが昨今の創造物で描かれる不死の在り方であります。それもそのはず、器に制限のある今ですら、時に感情を枯らし廃人となった人間を見かけるくらいですから、我々の魂が、無限という茫漠たる時間に耐えられるはずがありません。「ホモ・デウス」がそれを考慮した上で(恐らく考慮の上)、あえて人類の目指すべきは不死であると導いているのなら、肝心の感情はどこにあるのでしょうか。ますます本書が気になります。
我々は、「ホモ・サピエンス」であることを根本とし、派生した「・ルーデンス」であり「・ファーベル」でもあります。また「・レリギオースス」であり、時に「ホモ・デメンス」と根本を書き換える場合もあります。これら人類の諸文化をを包括して「ホモ・デウス」と名付けられたステージに至る時、その進化のプロセスとはどのようなものなのでしょう。
もし、さる魂の有限性に関する問題について、人類が感情という不可欠の要素を捨て去る解決法を示したならば、「ホモ・サピエンス」は「ホモ・デメンス」の面を完全に排し、徹底した合理性に基づいた「賢い人」こそが、「ホモ・デウス」への進化の切符を手にする。理性こそが人間の本質であり、その部分に特化させるという進化の理論は、妥当といえば妥当かと思います。
でもね、私は人間の本質は感情だと言いたいのです。だって素敵じゃないですか。人間は理性よりも感情を優先して動く、「狂気」であれ何であれ、その行いには理性には無い温かみがあります。「工作」は体温ある人の手によって行われ、「遊び」は団欒の中で生まれます。「対話」は実務的な伝言のみならず、心の触れ合いだって含まれます。それら行いは実に不必要で、すなわち無意味です。合理性に特化した「賢人」には決して見られない動向でしょう。だからこそ、むしろ人間的と言えるのです。
肉体は恒久だとしても、魂は必然的に死を迎えます。温かな人間の営みに対して冷たい死がある。それを思えば思うほど対照的に心は冷え切り、人間とはかけ離れていく。明日思う気力すらなく、今日を生きる勇気もない。死に怯えて小さく縮籠ることしかできない退廃的でアンニュイな人間像。虚無の寵児としての人間。ナンセンスに愛された人間。形なき人間。無意味な人間。ただ確かにそこにあった感情の亡骸を抱えて死を待つばかりの人間。「ホモ・ヴァニタス」。
我々は皆、虚無を感じ、虚無を自分を重ね合わせた瞬間から「ホモ・ヴァニタス」なのです。どんな瞬間でもいい、己が大切にされていないことを知った日でも、信念やプライドがズタズタに打ち斃された日でも、白濁に汚れた後でもなんでも良いのです。「虚偽」「虚栄」「虚無」を思い、少しでも死による解決を待ち望んだのなら、過去・現在・未来すべての時間軸において自己の定義が消え去ります。そこに残ったのは「・サピエンス」でもない、「・ルーデンス」でも「・ファーベル」でも、ましてや「・デメンス」ですらない、心臓を虚ろに穿たれた「ホモ・ヴァニタス」という人類なのです。
「ホモ・デウス」は紛れもなく人類の指標です。人間の持ちうる知性を神の領域にまで高めた人類。ですが、それはあくまで「ホモ・デウス」であって「デウス」そのものではなく、いわば所詮、神の真似事に過ぎないのです。いかに完璧を嘯こうとも、必ずどこか神になり切れない部分があり、それこそが、神と人を分かつ「感情」という概念なのでしょう。ゆえに、感情があるからこその人間という像を導くことが可能であります。そして感情には死が訪れます。すなわち、「ホモ・ヴァニタス」の誕生です。
進化の話をしました。「ホモ・サピエンス」が「ホモ・デウス」となる。経るのは淘汰の過程かもしれませんし、止揚の過程かもしれません。洗練された「ホモ・デウス」という人類は、これ以上進化の余地を残していないものでしょうか。
さあ、どうでしょう。果たしてその世界に「ホモ・ヴァニタス」という在り方は存在しているのか、それは分かりません。ですが、これだけは言えます。「ホモ・デウス」がその核に、いまだ「感情」という概念を残しているのなら、「ホモ・ヴァニタス」は確実に生まれます。「ホモ・デウス」がすべてを失い「ホモ・ヴァニタス」になることを進化と呼ぶのは相応しくありませんが、種の最終着地点という意味で、我々人類の最終進化形は「ホモ・デウス」ではなく、「ホモ・ヴァニタス」の他にないということを知らねばなりません。

心を失った瞬間に人は終わる。なぜなら人の本質は「感情」なのだから。
私は、私だけは「ホモ・デウス」への進化が起こったとしても、この事実を忘れないでいたい。

【以下余談】
不能や無力にエロを感じるのは私だけでしょうか。いや、こういう人間は一定数居るはずです。
日々を適当に過ごすだけの人間、その日の終わりに、己が何事も成せない人間であることをボソッとつぶやく。
「私ってダメだね」
自覚はある、けれどもそれをどうにかしようという気力もない。願わくは、だれか知らない人が、じぶんの眠っているときに、そっと首を絞め落としてはくれないだろうか。それが、一番いい。
死に臨み、死を望み、死に救われる。
眠りは死に似ていて好きだ。でも、

「また、朝――」
また、朝にどうにもならない感傷を抱いている。