モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

部屋

 部屋という空間の完全性を説いた時に、まず排されるべき人間という存在を考える。

 部屋が物で溢れかえると忽ち居心地が悪くなる。これは汚いものから目を背ける感覚というより、部屋の定量を侵すためであると思われた。部屋には定量がある。宇宙が熱的死を迎えるように、部屋という空間も熱的死を恐れるのである。部屋の物質量は限られており、互いが作用して空間を安定させる。この安定は物質の特性よりもたらされ、外物の障りさえない限り、熱量もエントロピーも不変なのである。

 時に、この完全性を害するものがある。物質に弾き出された変性の化身、人間。人間がこの空間に不和をもたらし、物質の定値さえ弄ぶのである。無機物は熱量をもち、エントロピーは無際限に増大し、部屋の密度は定量を横溢して、法外な質量を得る。それを中心とし、あらゆるものが歪みに取り込まれ、落下と回転の相互運動によって宇宙に熱的死を来すのである。

 ゆえに、部屋と人間は一切相容れない。一切人間による片利共生に付され、ただ美しかった空間は、魍魎の飛び交う地獄へと変転する。人間は魍魎の見切りすら付けぬまま、或いは魍魎の瓦礫に伍するを潔しとしてなおもこれを止まぬ。その限りにおいて、部屋と人間の調和は訪れない。

 

 ときに、これは妄想の小話であるが、人間がその変性する可能性を放棄し、物質界に悟入することがかなうのならば、このとき部屋と人間は、初めてある種の符号を迎える。そのために、我らは空間を慈しまなければならない。事物の先後について常に正しく、部屋を先として常に奉り、のちのちから加わり申し上げる謙譲を捨ててはならない。人は物質となり、空間のあるがままに安定を手にするのだ。

 ある人間が言う。「日常は自室にしかなく、自室以外に日常はない。日常に私があり、私は非日常にいない。」自己と自室との完全な融合が語気の端々に見られた。それは、その人間からの拒絶でもあり、その人間を内包する絶対の空間からの排斥でもあった。そうしたものを受け、私は尚のこと、その人間に近寄り難い感じを得た。