モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

愛が聞こえる

今の時代、小学生でもパートナーがいる。これに対して「不埒になったものだ」などと嘆いたりする。現に私が小学生であった時代にそのような事は感知されなかった。それどころか、男と女は半ば対蹠的な関係にあったと思われる。交わらぬ、という意味ではない。現に私はモテた。だが、たとえそういうことがあったとしても、私に誰かを傍に置く気など更々なかったものだった。
蓋し、当時の男子小学生界隈における理想的男性像なるは「硬派」であった。性の喚起は未到達にせよ、女性にモテるという事は、いわば生物学的にオスとして勝利したということに他ならないわけであり、その事実は当人を大層高揚させることだろう。だがそれを表に出さず、あえて自ら無感動を気取り、あくまで毅然と冷静に振る舞うことこそが男の本懐であると理解していた。それ故に、男は女からの誘いを安易には受け容れることはなく、すなわち平安時代とは逆向きの風が吹いていたようだ。
当時の流行を鑑みるに、当時、男女は互いに敬遠しがちであったというのは不適切だ。男は港を閉鎖していたが、女はバンバン開港を要求していたといった方が適切だろう。今の小学生は港を開放しているに過ぎない(むしろ閉鎖するという発想の存否)。つまり、我々男が港を開放しさえしていれば、今現在の小学生における男女間交友の異常性を訴え、何かイチャモンを付けるようなこともなかっただろう。彼らは我々と較べ多少ヤリ手なのだ。



「10代の目標なんて3日で変わる」──言の葉の庭──
季節は移ろう。それに伴い人も在り方を変える。万物は流転し、諸行無常であり、時は絶対的で不可逆である。過去を思うことは出来る、補うこともできる。だがそれは現実ではないし、所詮は妄想の産物に過ぎない。泡と消えておしまいだ。

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すべてにおいて「長い」に越したことはない。ゴブリンスレイヤーは洞窟内で剣を振るため剣を短くしますが、それなら洞窟ごと斬り裂いてしまえば良いのでは?と思います。嘘です。申し訳ございません。導入を間違えました。
「長さ」というのは極めて具体的な物差しであります。単に価値を計るならば、小さいよりは大きい方がいいし、短いよりは長い方がいいですよね。この指標は時に対しても用いられます。短ければ短いほど意味は薄く、長ければ長いほど意味が濃くなる。なんでもかんでもそう、というわけではありませんが、まあ大切なのは単純明快さです。
これを関係の深さを計るのに用いたのが小学生の私であります。愚かなことだと今になっては思うのですが、当時の私は友達に順位を付けたがったのです。なぜなら遊びの誘いが重なるから。そうした場合にこの物差しを使って「じゃあこの友達と遊ぶか」と決断していました。付き合いが長ければ長いほど都合を優先させるべきで、短ければ蔑ろにしても良いという文法であります。この衡量はまだ私の中にも多少残っています。何せ先にも書きました通り、単純明快なので判断を迅速化させることが可能になりますから。使ってる人も多いんじゃないでしょうか。
この文法を用いれば、その人との付き合いが長いほど関係も深まり価値が高まる。まあそんな気がしますよね。だって幼馴染ってそれだけで特別感があるじゃないですか。単にこの文法のみによって導いたのなら全人類は幼馴染と結婚しているはずです。そうなっていない事実はこの衡量の欠陥を如実に示しているわけですが、それでも幼馴染というのは実に強ポジでしょう。



今日も今日とて駅には腐るほどカップルがありました。倦んでいた私は「よし、今日の暇潰しの材料は彼らにしよう」と決めて暫く思索に耽っておりました。左様、駅には腐るほどのカップルがありましたから、その様相は千差万別です。駅で別れる社会人のカップル。同じ校舎へ向かう大学生のカップル。高校生のカップル。中学生?のカップル。乱交パーティみてえな小学生の群。まあ、ありありですよ。
今回材料になったのは、彼らの他に、彼らから導かれた愛、それと小中高大そして社会人となる時の流れでありました。
直接的に言いましょう。私は、彼らが果たしていつから付き合っているのかが気になったのです。社会人は社会人から付き合い始めたのかそれ以前なのか。大学生は?高校生は?中学生は?小学生は?未就学児は?胎児は?胚は?受精卵は?
じゃあ仮に社会人から付き合い始めたということにしましょう。今猛烈な充足の中にいるでしょうね。だからこんな事は思いもしないかもしれないですが、私は思いました。

「この人の(大学生/高校生/中学生/小学生)時代知らないなあ。知りたいなあ」

そう言われると気になりません?私はボッチですが、特に大学生が嫌いで高校生が好きなので、こいつら高校生に戻れよとか思いますね。そんなん聞けばええやんとお思いでしょうか。その「知る」は私の思う「知る」とは違いますね。もちろん、それでも良いんですけど。
先程の幼馴染スゲーって話にも通ずる事なんですが、付き合った時間の長さをそのまま価値として計ることも可能です。もし、あなたがその人を愛おしく思い、より長い時間を共に過ごしたいと願っている。そして、あなたは時間を巻き戻す力を持っているのなら、大学生、あるいはもっと前でも構わない時間軸からずっと一緒にいたいと思いませんか?表面的な理解ではなく、実体的な知識、生きた経験を得ることが出来る。それを手にしない手は果たしてあるものでしょうか。
加えて、人間には終わる瞬間があります。死の到来を遅らせることはできても免れることは出来ません。我々は有限なのです。上理論に当てはめれば、産まれてから死ぬまで、生死を共にすることで価値が最大限に高まります。言い換えればそれが限界なのです。いくらこれを用いて愛の深さを弁証しようとも、結局愛には限りが存在することを知らしめられるばかりで虚しくなります。一方で、だからこそ、とも言えるでしょう。愛に最大限が存在するならそれを常に保持すれば良い。ルールを決められた上でどれだけ自由を尽くせるか。常に最善を尽くす最良の行為。理論上の最強。無双の境地。高み。

現在のテクノロジーで時を遡行することはできません。そのうちできるかもしれませんが鬼に笑われたくないので想定しません。現時点での最良の愛は「小学生の頃から付き合うこと」と結論されます。お互いをよく知り、よく学びあった関係こそ至上であります。あの社会人カップルがもし小学生の頃から付き合っていたのだとしたら、それは奇跡としか言い様がありません。私はたかが妄想で涙をしました。なんたって最高の愛をここに見つけたのですから。感涙です。慟哭です。
その関係性を「奇跡」と呼びました。「10代の目標なんて3日で変わる」とは『言の葉の庭』において秋月孝雄の兄が発した戒めのような言葉です。言葉の真相はともかくも、10代の時点で3日で変わるのなら、小学生の目標はもっと目まぐるしく変転していそうなものです。転じて、「小学生のパートナーなんて1日で変わる」これは偏見でしかないですが、割と確かなことでもあるんじゃないでしょうか。子供たちはあらゆる意味で純粋ですから、偶然や運命などに惑わされたりもするでしょう。席替えで隣同士になったとか、地面に絵を描いて遊んでいたら自然とハートマークが出来ていたとか、ロマンチックでたいへんよろしいです。よろしいのですが、それ以外の理由が無さそうなのはあまりよろしくありません。長続きはしないでしょう。加えて、彼らは飽きやすい傾向にあります。別れる理由としてはこれくらいしか思いつきませんが、正直充分だと思います。
思い返してみてください。小学生の頃の一日はおっさんになってしまった今よりずっと短かったような気がしませんか?そして、楽しい時間が早く過ぎ去ってしまうのは世の常であります。若き日、感受性の豊かな頃、世界は新鮮味に溢れて一日を楽しく過ごしていたことでしょう。「楽しい」は「短い」、この対偶は「短く」なければ「楽しく」ない。つまり、「長い」は「退屈」となります。絶対にそんな事は無いのですが、小学生は単純なのでこういう方程式にまんまとハマってしまうのです。
一方で彼らは楽しさを求めて生きており、「退屈」は何としても忌避しなくてはなりません。自明でしょう。「長く」付き合うことは「退屈」を招きかねないことなので、彼らは長く付き合ってはなりません。
よって彼らは会遇と離別を猛回転させ、ただ日常に退屈を齎さないよう努めているのです。
彼らがやってるのは、いわば恋愛のライト版であります。告る▶付き合う▶別れる という円環のプロセスを物心の付く前に予行しておく。やがて恋愛観が根付いた時、その実行に臆することなく着手できるための準備みたいなものと解するのが妥当でしょう。種の存続のため、彼らは番を成すコツをこの時点で学び、恋愛のエリートとして社会にぶち込まれる。すげえな、初等教育再履しよ。まあ絶対そんなこと考えてないんですけどね。
本命は、同調・圧力によるものなのではないかと思います。ある小学生がパートナーを設けました。すると、別の小学生がそれに憧れてパートナーを作りました。あとはその連鎖で事は進みます。やがて「付き合っている」というのは小学校における基礎ステータスになり、それを持たないものは迫害される。迫害を避けるためにますますカップルは濫造される。グロやん。こんなん恋愛ちゃうやん。しかしながら有りうることです。我々日本の民は初等教育において協調性を学びます。そういった方針の弊害が彼らの精神にまで及んでいることは想像に難くないでしょう。
ただ弊害ばかり生んでいるわけはありません。もしかしたら、先程の社会人カップルはそうした環境があってこそ結ばれたのかもしれませんし、あるいは、運命の糸的な必然性に導かれて成る可くして成ったのかもしれません。どちらの可能性も捨てきれない以上、教育批判をしたってしょうがないし、リアリズムを主導したってしょうがありません。結果的に最愛を導いているのですから、その過程に間違いなどあるはずもないでしょう。

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今はただ境遇を嘆くばかりである。幼き虚栄によって失われた過去、喪失した未来。有り体の言葉を並べたところで最愛には届かない。無念がここに窮まる。
人よ、幼き頃より恋をせよ。それに身の丈などは存在しない。愛を謳い、人生を賛美せよ。
彼ら、永遠よ共に。