モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

青年の未来

 哀れな話だ。かつてあれほど、他者を現象だの自意識の化体だの貶していたにもかかわらず、今の私は、今と未来に対する主体性の欠如が故に、結局は他者や乃至社会のために生きようとしている。かの学生の責任控除時代が見せた幻影だったのだろうか。あの時もなお、主体性があったとは言えないのに、ただ社会に出てみれば、私のいう、消極的未来志向という主体には、何ら価値が無いことを知らされたかの如くであり、或いは、無価値を知りながらそれを信奉していた非実体の現実、それ自体こそが極めて無価値だったとさえ考えられる。

 ただ先の時代より、生とは不随意の運動だった。それは今も尚そう謂れ、生に対する積極性というのは文明の発現より次第に意義を失している。そういう意味で、かつての私は消極的未来という反動的な主体を見つけたのだった。その点、今も変わりないのであれば足りた。だがその実際は、社会的な実態は、生なる意義のゆらぎの中にあり、やがて生きることとは利を為すことと殆ど同義となったのだ。また往々にして、自己利益とは空無な満足であり、他者の追認なければ、世に効果を現さず、それもまた無価値の虚に沈むものだ。故に他者は、自己に対する鏡ではなく、殆ど絶対的な存在として、自らの履歴書に有価値の判を押すものである。生とは、そうした利益を追求するもの、また他者の承認を追い求むものである。従って、積極性の生命とは、生自体の有する意義の変更によって、現世に再生されている。それに気付かなかった学生、或いは気付いていながら自己と切り離された現象、本質を失した形骸式モラルの一環として無視していたその時代は、顧みてなお無意味である。

 なんと哀れなことか。無意味を実証し、寂寥を感じるほどにしか意味を為さなくなった在りし日々よ。私は既に、おまえの正しさを証明するための生存ではなくなった。私はおまえを見捨てた。やがてこの寂寥も消え去る。私が哀れむのは、今の自分それ以外ではない。