モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

片道

 3月末には仕事を辞める。2023年の元旦からそう考えていた。根拠はない。正当性はない。横暴で粗野な考えだった。けれども、もう、刻が近い。

 三十日から三が日まで、ずっと休みだった。こちらに帰ってきた友や、兄と出かけ、一日家にいた日はない。多くの人間と久闊を叙して、己の立場を知った。思い返してみれば、これがすべての原因。俺がこのままでいてはいけないだろうと思えたのは、そういう交友関係があったからだ。

 友達は、よく飯を奢ってくれる。兄もよく、面倒を見てくれる。それは、彼らが親切だからというだけでなく、シンプルに余裕があったからだ。余裕は、例えば金銭的余裕であったり、心の余裕でもあったりした。正月だからというだけで、ただの陽気を振りかざすほどに、俺たちは正月を楽しんでいたのかもしれない。

 長い休みだったと思う。俺がこの会社に入ってから、もっとも長い休みだった。ものを思うには充分な時間があった。運命を変えるには、思い付きだけが足りなかったのかもしれない。そうして、三が日の終わり、正月の気も晴れり、閑寂の押し寄せる夜に、仕事を辞めることを決意した。

 次の日の朝、俺は店長を捉まえると、すぐに辞職の意を述べた。その一瞬、店長の顔に「今更」という表情が浮かんだかに見えた。

 俺が辞めることは、別に青天の霹靂だったわけではない。それは、少しの社会経験を積めば誰にも分かることであったに違いない。俺は掌握可能な赤子に過ぎず、それは単に駄々のようなものであった。

 だが、俺はその日、仕事を辞めることになった。1月の末に期限を設定し、交渉を閉鎖した。その夜、俺は同期2名と飯を食い、辞職の旨を話したのである。

 2年前の4月に較べ、同期の数は随分減った。割合にして、4割の人間が、仕事を辞めていった。ボロボロと崩れゆく交友関係から身を守るため、俺たちは徒党を組んでいた。お互いはお互いのため、お互いの心配をする。皆が気丈に振る舞い、情熱的で、しかも親切であった。それを捨て去ることは、俺にとって非常に痛痒だった。

 案の定、猛烈な口撃に遭う。その本質は、勇気に対するこの上ない称賛と、無常の励ましと、滂沱たる感情の拒絶であった。認められるわけがないと知りながら、俺は認めざることを知った上で、認められようとも思はなかった。結局、これは裏切りなのであった。俺はそれを知っていたし、あの夜、あのすべての終わりかのような夜に、あった意思は、非道で、冷酷で、あまたの感情と、あまたの誓いを反故にする、利己的で、甲斐性のない、静かな決意だったのである。

 あのとき、確かに誰かを悲しんでいた。俺ではない誰かの、何かにまつわる運命を悲しんでいた。ただどうしようも無いくらいに悲しくて、無視して、鎖ざすより他に方法はなかった。一時的な夢を見ていたのだ。その夢の訴えにより、自分は一手を誤ったのだ。合理性とその本質は、俺と乖離せざるべき兄弟であったに違いないのに、ただ運命という俗物に翻弄され、俺はそれを悲しんでいた。俺はどこかで、誰かを慰めるような、包括的で慈悲に満ちて、霞のように無意味な、言葉を探していたらしい。

 結局、三月末まで仕事を続けることになった。それは、別に悪いことではなかった。少なくとも、自分の中では妥協することができた。大いなる焦燥と、20代の消費のなか、やむを得ざることを思えば、納得の方便もいくつか立った。

 運命という言葉を延伸のうちに収める。この二月はそれに費やされた。簡単には行かなかった。半径90センチメートルのなかに、運命の在り処を探すことは困難だった。仕事と、趣味と、人生と、交友と、愛情と、暇と、この両手にあるもののうち、すべてが運命を嘲弄していた。仕事によって道を閉ざされ、趣味によって正統を外され、人生とはひたすらに阿漕であり、交友はすべての逡巡を生んだ。愛情にうんざりし、暇についてはなすすべがなかった。二月の間に、色々なことを考えていた。本当に、考えるだけで億劫になった。億劫になっているうちに、時効も過ぎ去っていった。

 残り数日、何を考えるべきか。もうやれることも少なくなってきた。運命に向き合うだけの余勢が、既に失われつつあった。