モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

それはお前が飲む酒だった

酒を飲む、理性を欠く。単純だが大事なことだ。 

漬けてある梅酒も全然減らない。立ち返れば、これは俺が飲む酒であり、俺は酒に所以を求めてしまう質であって、普段こそ酒を飲まないのだから、そういう意味で減らないことに不思議はない。ただ、どこかで、どこかの一地点においては、本人の消費分外に減っておかなくてはならないような気がする。酒は一人で飲むものでない。隠匿されるべきではないし、開かれてあるるべきだ。単純だが大事なことだ。梅酒もまだ俺の懐を離れないようだが、いつかはお前もそういう時が来る。立ち返れば、そういうことも思ったかのような余韻が腹をぬくめる。寂しいような感じと、嬉しいような感じだ。

今年、兄は帰ってこない。「帰るだろう」と告げて、その是非の間を幾つか往来した挙句、結局帰らぬところに落ち着いたらしい。分からずともせず、ただ兄は帰ってくるものとばかり思っていたから、その点において期待は死んだ。「きっと帰ってきたなら」そう手放しに考えて一時は止まなかった。帰ってきたなら俺の誕生祝いをせびってみようか。帰ってきたならこの梅酒を飲ませて美味いか不味いか聞こうか。帰ってきたなら、東に出て五㌔萎んだというその顔をみてもよからぬか。そういった具合に、先走って新年の感触を味わっていた。叶わぬというのなら諦めるしかない。世には事情というものがあり、おうおうにして捉まえられるのが人というものだ。兄の薄情も、親の臆病も今に始まったことではない。一面的にそう見えたとて、内容はもっと複雑に違いない。ただそういう状況にあれば、あの詭弁家の言った嘘も、ただ一定の度合いでは有効とも思える。皆決して口に出さぬが、会いたいというなら会いたいのではないか。それを隠匿し、世間に口を慎んでいないか。この先何度会えるか分からない。近郊の人間は遍くウイルスと隣合う。その中で帰省というそれだけを摘んで因果を成せるか。尤も合理性はない。だが、そういう理屈が筋を違えるのも納得はできる。或いは納得するより他にないのだろうか。閉口し、隠匿することこそが、我々における美徳であって、黙って死ぬのが最も美しいというのだろうか。

杯を挙ぐ。この一杯は、お前の飲むものだった。早熟の梅酒は青く、まだまだ臭い。