モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

傲慢の荷車

 『ジョゼと虎と魚たち』を見た。去年の暮れ頃から既に上映していたようだが、見たのは初日の出を迎えてからだった。あっちの友人やこっちの友人と一緒に見に行こうかしらという約束を暗裡に交わしたような気がした。しかし、いつまで経っても水面から顔を出す気配もなく、機ばかり逃しては悔悛すら惜しまれるだろうと思って勝手に一人で見に行ってしまった。彼らはいずれも世情に雁の字であるから、その点も顧慮し単身身軽に赴いたのは一種の合理的判断だと思う。そういった合理性の犠牲として供されるのは不本意だろうけど、それはそもそも諸君らが不確定要素であることがまず悪い。その点は我々の反省点である。

 本題の『ジョゼと虎と魚たち』であるが、これは大変良かった。メアリーの部屋。高慢。痛み。痛みは、ただ俺個人の、独我的な痛み…不肖の俺はバイトの都合で人間の介助をよくする。その点では妙な現実味が流入し、一定の半強制的同情へと促されるのであった。奇しくも、こうした主題にあるから、俺はひとつの願望としてこの世界観を見てしまう。例えば、『こんな夜更けにバナナかよ』に挙がる身障者の傲慢を見た時に、その人間が傲慢に見合うほどに美しければいいのにとか、反対に、美しき人間が、その美しいが故に傲慢であればいいのにとか。結局そういうのは現実にないし、俺が目の当たりにする身障者の傲慢は、融通の死んだ黴のような老人から発せられるのである。その傲慢はいつも身の丈に合わず、俺をただ不快にさせるばかりであった。ただこうして口汚く罵れど、その傲慢の根付いた淵源は我々にとって図り知れるものではない。故にこそ、健常者と身障者の溝は、その可動領域の差以上に広く隔たれているのだ。ついぞ、彼らの心象に思いを馳せたことなどなかった。彼女の傲慢は、彼女の傑出した美しさから生まれいづるものなのか。連中の過剰と言っていい庇護精神は一体何に由来するのか。それは、結局のところ分からない。少なくとも健常であるうちは分からない。俺はずっと、謙虚な人間は昔から謙虚で、傲慢な人間はずっと傲慢なのだと思っていた。だがそれも、どうやら違うような気がする。誰しもとは言わない。きっと始めは謙虚に生きようとした。しかし、それがどうも上手くいかなくなる。いずれ気付くのだ。謙虚にならねばならない理由、その根拠などなく…ただ少し身動きが取りづらいばかりに、この先ずっと、誰かに感謝し、そして一人では何もままならないことを詫び続けなければならない人生とは、きっと苦痛以外の何物でもない。

連中は、そうした居た堪れなさを背負いながら車躯を引いているのかもしれない。