モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

なんでチョコがあるんだよ

 15日だと油断してバイトに出たらチョコを貰った。そしてそれ以上は何も貰わない。例えば、このチョコの由縁とか、渡すことに関しての気心とか、そういうことを考えるのはもはや無粋であると既に承知している。しかしながら、悲しい現実として、こんな文章を起こしている時点で、我が童心は平静を保てていなかった。それは包み隠すべくもなく露出した、俺を底辺カス太郎たらしめる証明書であり、自家中に消費しきれぬ毒──中毒──を無様に排外しているのだった。

 単に言えば、このコミュ障よろしく会話が頓挫したことに対して、扱い上の不慮があったのではないかと苦心している。もっと良い繕い方があったのではないか。あったに違いないが、ボケカス過ぎてまったく分からん。やはり先述した通り、我関せず様のスタンスを取っていれば、この具体性の媒体たるチョコの消化は滞りないのであるが、それはただ自己のため弄した、チョコの有意性自体を消し潰す酵素であって、渡した本人の期待する消化方法ではないような気がする。無論、好機に出づれば却って空回るやもしれん。幾つか会話を紡ぐ文句は浮かんだが、いずれも不興を買う可能性を帯びていた。例えば、「これは、なんか同僚に対する義理みたいなもんですか」とか。「義理」という文言がこの限定下において極端に不穏当である。ましてや、それを尋ねることなど…。事物に付される意義を探ることは決して悪いことではない。大概の会話はそうした事物に起因する行動・意思を探ることによって進行する。しかしその慣例も、この限定にあっては悪手も悪手なのだった。薮蛇…これは経験の浅さより来る恐れであった。何が出ても、或いは何も出なくても俺は当惑を招いて気を失うに違いない。とにかく、穏当を貫徹するにはチョコをチョコとしてみなし、チョコ以外としては一切認めてならん。この洋菓子の幾許か硬い外殻に眠るものを起こしてはならない。その形而上の実存を感じてはならない。もし、啓蒙の発するところに狂いがあるとするならば、きっとこの中に千変万化の宇宙が眠る。開かずは開き、滂沱たるエントロピーの波に熱死した骸が浮かんでいるのだ。その骸が、落ちた眼窩に扉を写している… …開かれたのだ。

 正しい選択をしたとは言わない。コミュニケの遮断が最良とは断じて言わない。嚥下も消化も正しくはない。困ったものだ。あくまで興味を本位に聞きたいことは山のようにある。「こういうのにはある種の社会的強制力があったんすか」とか「管区の違う人間に対する義理って一体なんすかね」とか「菓子作りっておもろいっすか」とか「なんか期待した反応とかあります?」とか「俺、どうすりゃええんすか」とか「バレンタインってなんなんすかね」とか「女の体面を繕う装置なんすかね」とか「そういうのってだるいとか思いません?」とか「渡される栄誉に与る人間の、その憂慮については考えたことありますか」とか「この責任から俺を救ってくださいませんか」とか「助けてくださいませんか」とか。等々、滔滔と黙せし猜疑の溢れんばかりであるが、ただ事実として受領したこの有意性媒体物を今更拒否することはできない。もとより拒否することもできなかったのであるが、俺が、そこで実直な力を有していたのならば、これを断ることができたに違いない。そうすれば、この意味のあるなしシュレーディンガーチョコレートは俺を通過し、素知らぬ誰かを案じる事になった。そいつはきっと無粋すら忍ばん人間であって、きっとチョコの意味を見つけるだろう。それが正しいか悪しいかを問うことなく、俺自体は意味の発見を期待し、それを歓迎する。誰か、このチョコの意味を見つけてくれ。なんで手作りなんだよ。

 

P.s.

 男の作ったチョコは無遠慮に食えてめちゃくちゃいい。