モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

空白という名の

主題のない文章なら書ける。

 

ずっと暇が続いている。先週、シフトの提出を忘れたから、日中予定のすべてが空白になった。暇なら働けばいいが、この時勢、そうもいかないらしい。

先日、志村けんが逝去されたのは衝撃だった。コビット19には英雄を殺める力があるらしい。そうなれば、英雄でない我が父母が死なぬ理由はないのだ。よって、外出は自粛され、出不精は時に合理性を獲得した。出先が出先のため、今更自粛したとてバイトを辞めねば効果はなさそうだが。

最近は家でゲームをしている。どう森やらモンハンやら、このどちらも、長大な暇を費やすには不足している。あまりにつまらん。家を拡充しようが、区画を整理しようが発表の機を持たぬのだからしょうがない。また、どれだけ装備を揃えたとて狩る相手がいなければ詮無い。大概のアイテムはショップから不正所得できる。なにより、自然の法理に従うつもりもないなら非合法なので、装備など揃えずとも、無敵のままにあらゆる敵を一撃粉砕し得る。そういう意味で言えば退屈はしない。退屈はしないがオナニーと遜色がない。オナニーでひねもす尽くせる謂れはない。従って暇が生じる。

しばしば過信をもって接していたTwitterだけれども、これもまた最悪だ。何も面白いことがない。これは昔からそうだ。退屈のためにTwitterを見るけど根本治療にはならん。たとい異時性を称揚されてもここには時限がある。栞を挟んだ時から現時点、真性に異時を唱えるなら未来のことも書いてなくちゃあいかん。故に断られて有限なのだ。有限の暇潰しなど存在しない。特に─これはなんの関係もないが─最近の時流であるいいねの数だけどうこうなるとかいうのが気に入らん。腐れだ。腐れに決まっている。いいねに対する冒涜であって、まあそもそも価値のないものだから冒涜とは可笑しいとしてもだ、あんなのに乗せられていいねを押すような自立心のないカスにはなるなと言いたい。老人のつもりで言うが最近の人間はとんと誇りだとか自我だとかいうのが麻痺してしまっている。そのうえで彼らは自分に意思があると信じてやまないのだから詮方無い。誇りなくして意思は語れず、意固地になれずして何だというのだ。同調の名のもとに集う群衆の悉くを焼き払いたいのだ。コビット19がそれを担うなら願ったりだとさえ思う。

老人のつもり、と切ってから、「昔は~」と呟くことの多くに耐えない。特に「昔は許されなかったことだよね」との文言は、現在を称える意味で用いられるのが相当のはずだ。老人もつもりもつもりで、だから真実など備わっておらず、昔のことなどとんと分からないのであるけれども、ただやはり、エモいの源流は過去にあれば、一般的懐古観念に従って言うと、現代は過去の劣化版である。俺にはそう見える。なんにも根拠がないながら、昔の方が皆確かな気をもっていて、矜持という人間性を備えていて、だから愚劣なことでも恰好良くは見えたと思う。これに関係するのは化学の進歩として掲揚されがちなメディアの発達だ。メディアは発達し、個人の発言がより見えるようになった。ただやはり、賢人より愚人の方が多くなくては世界が回らんから、それでもって愚人も賢人の如く空虚ながらに喚くので、愚人が目立ってしょうがない。これは直ぐに憂いへと繋がり、人間はより憂うようになった。ただもはや、人間は憂うに値しない家畜に成り下がっている。彼らに意思は存在しない。

気まぐれから花譜を聞いて、彼女の歌は凄惨で痛々しい。悟るような言句をもっている。俺が痛々しいと言うのは、それが通用しないと思うからだ。すごく悲しく見える。彼女は歌で届けたいと望むのに、心を貸すものはきっといない。哀れだとも。ややもすると、歌も廃れたものだという気がしてくる。素晴らしい歌を知ってるわけじゃない。ただラブソングなんぞに世界を救えるはずがないので、花譜みたいなリリックが望ましいのだけれど、悲しいかな一般に受けない。ラブソングは良く受ける。この法理は我が在する世界線にては解き明かせぬ謎だ。恋など、筋の通った現象以外の何ものでは無い。そこに不思議は生まれず、恋を通じて知るものもなく、だから深長な解釈なども有り得ないはずだ。生と死と、憂いと悲しみを通じてしか人は進歩しない。歴史が既に物語る。この時勢において、ラブソングなど瘋癲している場合じゃないのだ。花譜の良い点とは、自ら出産した歌を「わたしだけのうた」としていることだ。YouTubeの再生リストがそうなっている。わたしのうたとするところをわたしだけとする。歌のすべてを独占している。これは自己流の解釈でしかないが、原初、特定人に歌われるための歌など存在しない。あるとすれば、声楽的教育の点から童歌くらいのものだろう。歌には絶対のメロディがあり絶対の歌手がありイメージがあり存在がある。そこに他人の介在する余地などないのだ。歌われる歌など存在しない。カバーや、酷いなら歌ってみたなどは言語道断で、歌い手などは賎しき盗人といって差し支えない。

花譜はそこを断ったのである。なんと気高きことかと存じたが、彼女はカバーも行っているので同感と察するには絶望的である。

愚人の自由を制限したいのだろうか。愚人こそ悲惨に生きるべきである当然が、現代では通用しないことに嘆いている。何食わぬ顔で愚行が為されている点がどうにも我慢ならない。俺は気遣って外出を粛したが、親が今日ろくろを回しに行ったのを見れば、もはや気遣いは不要ではないのか。若者が己の死せることを知らぬのは勇敢だが、老人のそれは何と呼ぶべきなのだろう。あらゆる杞憂をもってして望むが賢人なのに、界隈では杞憂民と揶揄される。恐れないのが良い現代だ。だのに若者の蛮勇は咎められる。結局、己の死以外は大事でもなかろう。他人に生を認める有機的判断に意義はない。言ってしまえば己の死でさえ現象だ。死なぬことが幸せではない。幸せな生涯が幸福なのだ。だから死は終点という機能面であり、作用でしかない。幸も不幸もあるものか。生じてから消えるまで幸福を貫徹できれば重畳だ。短ければ短いほど幸福で満たしやすいと来れば、勇敢な外出は優れている。それで死んでも幸せを叶えるために死んだんだから詮方無い。優れた判断である。

なんだか就活もおっつかないし、旅行でも行こうかという気がしてきたのである。