モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

ジャミング

久しぶりにバナナが食いたくて、バイト帰りにスーパーへ寄った。

コロナの渦中だと言うのに、人がごった返している。ゆえに、人目が気になる。

普段、こういう場に行き慣れない俺は、メガネをオフしていたのもあって、客の行動予測線の錯綜に困惑し、入場して間もなく挙動不審に陥った。この恥を偲ぶこと能わずとして、さながら森の深奥の如きバナナに諦念を抱き、終始挙動不審の体裁において、来た道を返したのである。

この昼前の直射日光に夏の到来を強か感じて、そういや店内に渡っていた微弱な冷風に気付いた。ほんの数秒のことであったが、老若男女入り交じる静粛とは無縁の市場。その活気は、近時の俺に欠けたるものであった。自粛という流行風に随行し、引きこもるうちに、しばしば虚飾された現実を空目しては、人など一切岩屋に仕舞われてジメジメしていると思っていたが、その実そうでもないようだった。確かに、スーパーとは生に餓えるものが集まる場であるから、活気に満ちねば道理でない。俺は欠乏症だからすこし感動した。人は依然活きている。生脚など晒しつつ…

 

 

生脚?左様、我が欠乏症なるは活気ではない。活気などなくても分娩の余勢だけで20年も生きた男だ。今更欠乏症などと省みるのは手遅れだ。従って、即ち生脚の欠乏症である。夏が来た。耐え難い直射日光による加熱を体表総動員の体勢において冷却せねばならなくなった。裾口を切り詰め、大胆かつ合理的に、それでいて審美に勝る現代技術の決勝を俺は褒めねばならん。天晴と、俺は活気づいた。

街路樹に沿って帰路。蓋し、発議である。

題は、「スカートとショートパンツにおける妨害効果優位性」

しばしば、スカートの妨害効果は低く見積もられがちである。さもありなん。かくの如き布一枚巻きで一体何を守ろうと言うのか知れない。凡そ一般論において、スカートとは美的観念の虜囚であり、実用から逸脱したナンセンスの塊に違いない。であれば、ショートパンツはどうであるか。丈は別にして、股間部分に布を当てているのだから、無論直視線の妨害効果は高い。

本当にそうだろうか?

幼児期、人間はある程度の予測能力を獲得する。予測力を助けるのは、ある事象の連続である。例えば、連続する波の模様を見ていれば、遥か万里の海模様も大抵予想が着く。また、経験の作用も大きい。人体一般の造形を心得ておれば、服など着ていないのと同じである。それらを併せて見た時に、ではスカートとショートパンツはどちらが妨害効果において優位を取るだろうか。

この点、俺はショートパンツが劣位に立つと思う。というのも、先程挙げた、連続則に依れば、些かシルエットの剥き出したるショートパンツは非常に妨害効果が低い、それどころか、股間の面を明らかにするわけだから一様に助けになるとさえ言える。悲しいかな、妨害の目的で敷いた布が、俺の論旨に依れば最も没目的な無意義に落伍する。

スカートはどうだろうか。スカートは、凡そ一般の人間の造形を逸脱した装飾であろう。従って、ふくらはぎから膝にかけて曲線の連続を目撃しようとも、途中で極めて無機物的な垂直線に妨害される。これでは腿が如何なる連結を遂げているのか不明であるし、股間など位置さえ想像に難い。従って、スカートの妨害効果は一様に高いのである。

これを丈の問題と捉えるものもあるだろう。ミニスカートなら連続は予想し易いし、ロングパンツなら曲線の連続などそもそも目撃できないのだから。

否、丈は問題にならない。いかにスカートが短かろうが直線による分断は存在する。現に、ミニスカートが脚を誇張する錯視を知らぬ覚らぬものはいない。なぜ長いかというと、股間の位置が隠蔽されているからだ。他方、ロングパンツに曲線の連続が介在しない事実は認めよう。だが、足に沿って稜線を成すパンツが直線の連続を生んでしまっている。内側の直線が終着するのは他でもない股間であって、股間の位置が定められてしまうから、依然妨害効果は低い。現に、パンッパンのジーパンはコケットリーを代名する。

以上、鋼鉄の述懐を以てスカートの優位性を確保した。

それでもって、俺は再三このスカートが異質のエロスを有することを主張する。

先の通り、予想は連続によるものと経験によるものがある。経験は想像力に豊穣を齎し、現実に非現実を適用する超自然的現象を起因させる。それは現実の疆域をも侵冒する無際限非理法の超常現象であって、とにかくヤバい。

スカートは妨害するから価値があるのだ。

寧ろそれが硬いとなれば尚のことである。

現実の制限を破却し、非現実の脱法的興奮を得ようではないか。

常々、隠すものは暴かれねばならん。往々、人間の手において。

 

経験的予測の玄人にとって万物は看過される。だから結局、実質、スカートもパンツも紙装甲でしかない。