モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

してみんとてすれど

心底怯えた話をしよう。

人間の関係が、肉体ではなく精神によって結ばれるべきものであるなら、私に友人─肉親にさえいない─と呼べるものはたった一人しか居ないのであった。

そんな彼が日記を始めた。既に日付を刻まれた頁に、今日したこと、あるいは思ったことを書き連ねる。そうすることで、自が人生において示した道を明らかにする。その日その日を確実に生きた証が日記だ。
だがある日、人間は挫折する。まめに日記を付けることを辞めてしまう。それは面倒という単純な気持ちから来るものであって、熟慮された三日坊主など存在しない。そう、俗に言う三日坊主である。
私も三日坊主になったことがある。見栄張るならば二ヶ月坊主なのだが、日記はつくづく以て現在進行形でなければ意味がない。日記は生命に曳航されるものであるから、命続く限り、続けていなければならない。
いかにも格式ばった考えであるけれども、例えば、「三日坊主で辞めたけれどそれは私の日記だ」と言い張るものも居なかろう。であれば、誰しもそのような信念をまずは持って日記というものをしてみようとするに違いない。だが仮に、そんなものさえ日記だと呼ぶようなものがあるなら、これは何とも奇妙なことではないか。
さて、三日坊主になった手帳を、敢えて日記と呼ぶ例を考えてみよう。まあ真っ先に、それは死人の手帳だと判断がつく。日記をつけ始め、たまたま三日で死んだものの手記、それは紛うことなき日記であり、その完成形である。遊び紙でもないのに、以降ずっと続く頁は、この世でたったひとつ、無謬の色を示している。
ただこれは無体な話に過ぎない。これをせずとも、日記と人生の紐付けは、歴史の編纂とまったく同じであるといえば容易に理解される。つまり、後から見たものにとって記録以外はまったく埒外に置いて構わないわけだ。
以上の精神と客観的側面を持って、私は2000円の帳を捨てたことを明らかにする。私が現に生きているのに、日記録上ではとうに絶命しているなど、なんとも不吉なことではないだろうか。遡って後悔はあったが2000円如きに云々する場合では最早なかったのである。

正直に言うと、これは後発的に施せる具体的な肉付けに過ぎない。時に私がそう思ってことに及んでいればいいなあと言うだけで、実際、いつ捨てたかだって定かでない。ただ、それでも明瞭に覚えているのは、目障りだったという感傷ばかりである。それでも始めた当初は、何かを志して臨んでいたものだったが…

日記を付けていて感ずるのは、日々というものには存外に価値がないこと。無為な一日といえばそれまでだが、わざわざ時を費やし筆に起こすほどの事情に失している。これは、私ほど無為な存在になくとも、人であれば誰しも感じる喪失であり、幸福の有限性を示す事実に他ならず、また、時に平常は、不幸よりも乏しい状況といえる証拠である。そんな死んだも同然の日をも帳に記して、果たして生を主張しうるだろうか。

人は思ったよりも無感動である。そうした事実に気付くのが、私にとって最大の恐怖であった。人より遥かに思弁的だと嘯いた私でさえ、しばしば何も考えていない日が点在した。何より、人間の本分は思考だと弁えたうえで記録を観測したのだ。かなりのショックを受けた。
ただ結局、私などはどうでもよかった。唯一、私の言うことを聞いてくれる友人こそは思考に溢れていて欲しい。私は、彼の日々にそう願う。





彼女が慕った女性が、実はなんにも考えずに生きていたことを知ったときの、彼女の戸惑いが忘れられない。