モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

あれあれば美なし

 美というものがイデアなのかそれとも現象なのかという難題を前に右往左往することがある。それはすなわち自らの美性を愧じることなくむしろ潔いまでの見識を蒙昧かつ強度に信仰するときと、絵が下手すぎてどうしようもないとき、それぞれの次第によって定まるという他なく、端的に言うと止揚されたまま降りてこないまさしくお手上げの命題なのである。

 ただ気まぐれのなすがままに自らにとって何れが簡便なるかを見定めるとき、自尊心は往々にして止まず、客体の如何を問わず悉くを現象と押し並べていたのである。従って、美の所在を現象、すなわち客体におけば、それを嚥下する器官が他に必要なわけであり、そこに自生する細菌か何かが、嚥下した美なるものに解釈を与え、そのコードを美性という器官が読み解くこの一連を、すなわち美とするものだ。しかしながら、こうした仮説の内側にある、美とは事実なのか或いは解釈なのかという問題の浮上にしばしば耐え兼ねるのだった。

 それは単に、ある選好の次第に他ならず、私が稚拙な事実より勇壮な真実を好むのであれば、美とは解釈であり、対して、何より真性そのものを愛するのであれば美とは事実に他ならない。より多元的に言えば、美はある事実とそれに対する解釈の過程であって、なればこそ内在するのが美性としては正しかろうと結論される。ただ一介の絵描きにしてみれば、自らの美性が消化管の変節をうねり蠢いて原形と無形を右往左往しているのは由々しき事態と言わざるを得ず、この腹の不調はすなわち筆の迷いへと直結するのだった。ゆえに、美とは往々にして体内で蟠っており、平生から消化不良を来す善性の毒物なのであった。

 これに対して美なるイデアについて空想すれば、それは完全に自己領域外の存在であり、あるかなきかと言うより見えるか見えざるかを論ずるべきところを無理矢理にあるかなきかの諸領域に叩き上げた徒労の産物でしかない。しかるに、人が本質と命名しこのイデア的世界観を希求するのは、ひとえにその徒労を好むためという他なく、いうなれば事実と言うより真実を望む目を持つからに他ならない。そういう人間は美術家に多いか或いは哲学家に多く、彼らにとっての美とは自らが信じるために存在する悲しき被造物なのであった。何より、それを見抜くという審美眼なるものの実証に擁されるという意味での悲しみであった。

 この多元的な美的観念というのは、それ自体がまやかしなのではない。おおむね誰しもが本源的な美しさを感じ得るような、初等級の美というものが用意されているというに過ぎず、それに直るのも反るのも人の好み次第であるが、果たして人の選好に甲斐性を見出すか否かの別において人間は大いに区別される。美とは甲斐性なのか、或いは共感なのか。そのどちらも優れた本質だというわけでもないのに人は議論を重ね続ける。その差異こそが美の本質だという止揚さえどこか的を射ていない。

 美、その形なきを描写するとは果たしてどのようなことか。私は絵を描いているのか、それとも自己を二次元上にフォーマットしているのか。つぶさに観察し、描画中の移り変わりを感じれども、私は結局何をしているのかは定まらないのであった。私にとって何が重要で──絵を描くこと、或いは絵それ自体──、何を目的とした──絵を描く以前以後の変転、或いは絵それ自体──行為なのか。それを今改めて掴み損ねている。

 絵はやはり開かれているべきだ。

──昔はそうだった。

でも今は違う。私は絵を通じて何かを為したい、その為すべきために、芸術の開放性を唾棄している。

 裸を描かなかった嘗てと今、そのどちらが美の表現者として優れていたか。何かを恐れて裸を描かないこと、何かのために裸を描くこと。

 私の技量はその点においてずうっと昔から遅滞している。