モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

怠け

生きる理由に正答はない。
だからといって間違いがないわけではない。解答としてある以上、それには要件が必要だ。多くは、他人に必要とされていること。世のほとんどのものが、誰かの必要性に応じて存在するように、命の在り方も即ちそこにある。
かかる考えをもっていれば、忽ち、ニートという不思議に当たる。ニートは、まあ殆ど確定的に必要ない。実益がないばかりでなく、害をも生みだしうる彼らに、生きる意味はない。でもそういうのが存在しているということは、やっぱり生きる意味などなくとも、人は生きていける。
合理性に専ら拠ってしまえば、実は、殆どの人間は殆どの人間に対して有害である。精神的にもそうだけれど、物理的にも、社会を成り立たせるための足枷となる人は存在している。先のニートもそうだし、ニートじゃなくても、働いていても、社会を回すのに必要な稼ぎを、他人に任せているものは少なくない。
だから、生きる意味とは主観にのみ存在する観念である。客観視して「あいつに生きる意味は無い」と言うのは、主観的には有効であれど、全く意味がない。
ただ本人をして、「自分には意味がない」と思うことは少なからずある。そして大概は有効で、死にたい気持ちになる。つまり、生命の無意義は死と同一視される。それは、死が無の現実的な表象であるから、無意義というものを見出すために、死は存在する。
でも却って、人は死なない。これは結局そうなのだ。
だいいち、意義とか意味とかの観念は、人間の創造物であり、原理的には存在しない。動物は、意味を見出さないばかりに、こうした苦悩を得ることなく生命を続けられる。結局、人も原理的に動物である以上、究極的には無意義で良い。意義がどうのこうの言ってる連中は、最少で単純な世界で満足できない傲慢がゆえに、その苦悩を与えられる。往くゆくは苦悩を払って意義の高みに上り詰める。無論、原理的には他と変わらない。
それを目指し、どこかで脱落して死ぬものもある。彼ら以上の殉死者はいない。なぜ人は死なないか、死を発想しないからか。それもまた、生きる理由だとは言えないか。

いま生きている人間は、死を発想しないから、消去法による必然で、どうしようもなく生きている。
駅に人間が集るのを見て、ふと、そう思った。