モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

完全性欠損

「絵が描けない」という思いが募る。するとますます絵が描けなくなってくる。
私は、
「この1ミリも理解できない──」
と現実に呟いて、そのせいで立ち往生を食らうのである。

絵の抽象性、あるいは具体性。だけれども、絵の本質は抽象的だ。精力を線で現し、感情の色彩を塗りたくるのである。具体物に人間の解釈という不完全で曖昧な、抽象的な認識を下すもの。だから、絵の欠損は完全性の欠損であると豪語した。そして取り返しのつかないところまできた。私の絵は永遠に完成しないものと成り下がった。

私には描けないものがある。人間に穿たれた穴の二つ、もっとも深遠な孔、両目。
観察は空想で補えるものと知っていた。ただ、私がしていたのは過信であって、空想が、事実の観察によって成しうるものであるとは気付いていなかった。いや、気付いていながら、どうしてもそれを厭うのであった。人間の目を正視した事は、ただの一度だってない。少なくとも、私が私としてあった期間にしたことはない。目の深さに気付いて、あるいは気付くより先に感じ取って、何か恐ろしくて避けていた。だが、もっとも多弁な部位を無視、認識の外に追いやることは終に叶わなかった。私が、空想を用いてカンバスに穿った穴はなんとも易く疑い得て、信じ難いくらいに浅かったのである。これは空想の敗北であり、絵の、私に対する裏切りである。

相克する孤の端を結う、張った円形、目のシンボル。私にはそれだって分からない。なぜなら事実が存在しない。解釈ばかりが存在するから、目への正視を厭う人間には、解釈もなければ、前提となる事実すらない。目のシンボルをいくら知ったとて、自らの視点によって変容する様を知らねば、目など描けるはずもない。分かりきっている。ただどう言葉を練ったとて、これが解決することはない。むしろ言い続ける悪癖が、完全性欠損の神話を不朽のものにしている。分からないと言い続けたことで、やがてただの白痴になった彼らのように。

この2日間で、私は目に関して素人になった。人間のどこに目がついているか分からない。大きさも対称性も、相似性も分からない。そして絵は完成しなくなった。
画竜点睛を欠く、という言葉があるように、目がなければ生物は成り立たない様である。いくら『完全性欠損』に信仰したとて、目のある所に眼窩とも呼び難い孔が空いているだけだった。途端に生命力は根幹から絶ち消えて、腐った死体の風景が異臭も漂わせずあるだけだった。いや、根幹から、元から生命が与えられていないのなら、それは死体ですらない。なんとも趣味の悪い静物を描いたに過ぎない。それは、絵とは抽象性ながら、客体という変幻自在のふるいに掛けられていながら、ただ一律に、誰の目にも出来損ないに映ゆるだろう。私ですら、その例外にないのだから。

「絵なんてそれっぽく描ければそれで十分」
それっぽく。このフレーズだけ耳鳴りのように反響している。これが抽象性の矜恃と矛盾するものだからか。普遍性に富み、殆どのものに与えられた眼球。生物にとって絶対的存在であり、情報においてもっとも優先される感覚。
考えれば考えるほど煩わしいのだ。こんな絶対的なものが絵にあってはならないのに、絵の完成にそれが欠かせないとは、私は、私は、