体が重い。
神に認定された肉体は重力と慣性の鎖に巻かれる。
重力は初動の枷として、慣性は行動多様性の枷として作用する。
あらゆる行動の理念は、結局のところ強迫的な感情である。
私は誰かに強いられ初めて行動する。意思などという不実の便宜は介さない。
運命論の信奉者にとって、強迫性の根源は即ち神または超自然的な存在である。
私の神は何者か。
意思など存在しない。あらゆる行動の理念ーー
反証の余地もある。私の生涯は意思の存在証明だといえた。
しかし、私が反証しなかったのは、生涯かけて「意思」という皮を着せてやった内的衝動、それに起因する行動より、曰く強迫感情に起因される行動が、人生の殆どを埋め尽くしていた現実を直視したためだ。
私は過去に強いられ、慣性ばかりが行動理念だった。
サッカーが9年続いた理由もそうとしか説明できない。
意思は当時であれ存在しなかった。
質量を帯びたる肉体が押されるままに、私はあった。
神の粒子に認定されないものは何物も存在しないのだ。