モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

成人式~神と呼ばせた雲~

成人として社会に認められた。そういう式があった。けれどその内実は友情という高熱に犯されていたように見える。約束は果たされ、だが一方で果たされることなく腐り落ちる。萎びた何かを眺め、逸らすべき現実を直視し、淀みは終に脳髄へと至る。虚しさか、それとも歓喜か空を仰ぐ。人はそこに何を見つけたろうか。

市長の言葉など聞いていない。傾聴に値したかと言われれば、俺はその評価を棚上ぐだろう。なぜなら話の一切を聴き逃したからだ。誰かにとっては意味となりえたが、俺にとっては鼻をすする音と何ら変わりない。では、意識はどこへ向いていたか。俺は久闊を叙した友の声を聴いていた。反復し、反芻し、懐かしさに富むその声。依然変わりなく悲観的であった。依然変わりなく死を見つめていた。
喘ぎのような擦れを丁寧に摘み取って綴ることは最早できない。そもそも彼はどこかで言葉を否定していた。その哲学めいた混乱に、それでも何か意味があると思って描いてみよう。さて、何の話だったか。
彼は凄絶をゆく。自業自得の茨に苛まれ、修羅なれど心折れ、立ち止まりつつ行く末を知るだろう。
彼は「ふとした瞬間に死に望むことがある」と切り出した。俺は言葉を取り損ねかけたが、かつて見た不変なる様相に思いを馳せ、懐かしい感触と共に言葉を汲んだ。脈絡は分からないけれど、彼について彼以上に知る者を知らない以上、彼に従わざるを得ない。彼はしきりに共感を求めてきたが、俺は修羅でも何でもない、ただ絶妙に荒れただけの道を歩んでいるので共感はしなかった。思えば、ここで共感を選んでいれば、かくの如き混乱も免れ得たのではないかと思う。今更だ。
かく語りきは、内なる己(そういう表現を好んではいなかった)を見たからだ、と言った風だろうか。日に思い詰めることがあるらしい彼は、度々思考の渦に飲まれ、自意識を手放しがちになる。そして他者に目覚まされては、その最中に放たれたぼやきを指摘されて初めて自意識を外にやっていた事を知るという。彼自身はそういうことを恐ろしく思い、そして死にたいという欲望へと赴いた。これは逃避に過ぎない、というのは本人の明かすところである。
曰く、人は理性の仮面を被る。手垢のついた考えだが、彼は、じゃあその仮面の裏には何が潜むかについてを言葉に出来なかった。俺が表現の手助けをしても彼の感触に沿うものを見つけられなかった。語るに、人は理性という仮面を被るが、時折、いや寧ろしばしば仮面の欠けた人間がいると言う。俗に言う狂人か。甘口な表現だが、目の当たりにすることも多かろう。理性の欠けた部分から覗く本性のようなもの。理性に対するおぞましいものが横溢している。彼が無意識のうちに行ったぼやきもそうした何かによるものとされ、知らぬうちに身体を奪われたことに未曾有の恐怖を覚えた。無理もない。名状しがたい何者かに自己を侵食され、記憶の外で、意識の外で何かをされたのだ。彼は決してそれを自分とは認めなかったし、認めたにせよ、それを殺すことは厭わなかっただろう。理性の留まるうちに殺してくれと願うのはありがちである。それ故に違和感なども介さない。
それから暫く死を見つめたりした。曰く、人生は選択の連続であるのは認めるが、終局は必ず同じ縦軸にて断ぜられるというのだ。所謂、人とは所詮大いなる何か(神と表現したかったが好まれなかった)の書き上げた作品の役者に過ぎないとされる。生じた瞬間、あるいはそれ以前より既に物語は完成されており、アドリブなんかはある程度許容されるが、退場の瞬間を間違えることは許されない。冗談じみて、だからここに隕石が落ちて俺らが死んだとする。それは俺らが成人の集いとして一堂に会したがためにそうなったのだと錯覚するだろうが、そうではない。仮に成人式に参加していなかったとしてもいずれかの方法で確実に死に至る。逃れ得ないのだ、と言った。実にそうかもしれないが、何故か理由を聞くと、彼は長大な構想を描く。役割だかそういった理だ。彼はそれを「何か、作用」と呼んだ。俺は神と呼びたかったが断られた。
人間には限界がある。それは見え透いた事実であり、俺がそれを「作用」とは呼ばず、神というありふれた表現を用いたことである。例えば、俺がその「作用」を神と呼んだ瞬間から「作用」という概念は神という言葉の表し得る範疇を超えることはない。神をこそ万能に思えたが、人間が作り出した言葉である以上限界が存在するのだ。では、真なる万能は言葉で言い表すことの出来ないものということになる。クトゥルフの世界にそういう怪物はいただろうし、ジャヴァウォックは言語に混沌を齎す存在だ。そもそも言葉というのは我々の抱く、所謂感情に実体を与え表出したものに過ぎない。だから我々の抱く美しき類の感情を言い表すのに言葉は不十分である。そうした記述である。嬉しいや悲しいなど、ひいては万能とされる尊いであれ、実際は絶句や唖然、呆然という表現の方が適切と思えよう。だがそれも我々の限界である。この感情を表せるもの、彼の抱いた「作用」に名前をつけることが出来るものは果たして存在するのだろうか。存在したとしたら、ではそれに名を付けたとして、幾分か正体の明かしやすくなった「作用」を見て彼は救われるのだろうか。彼の頑迷なる脳髄は「作用」を認めうるのだろうか。
人間を問うた。地球にのさばりし神の子の是非を問う。視点は何処なりや。それを語らうものが人間の形をしていようとは思うまい。人は神に似せて造られた。外形ばかりを摸し、神の天眼を持つだろうか。人間の限界をも見透かすほどの、真実のみを見通すほどの。
彼は傲岸不遜という言葉を大いに用いた。今や地球の王を自称した風であるが、それは間違いであると言う。先の理性に関する話題より展開し、動物をも我々の知らぬうちに理性や、ひいては感情なるものを獲得していると言った。これを特別などと思うのは人の驕りに他ならず、神より祝福を授かったのは人のみではないと説いた。この会話の結末は、つまり人は何も知らないという所に着地する。それが人間の限界であり、我々が死ぬべき理由だと言うのだ。玉座にふんぞり返った王が臣下に惨殺されるというのは些か格式ばった王道的顛末であるけれども、その王を人間と見て、ではその臣下は何と見るかは今の俺に見当のつかぬことである。俺は専らそういうのを信じていない。獣に理性や感情があるなど考えたこともなければ考えたくもない。ましてや隣人にも魂が宿っているかなど知ったことではない。彼においてもその臣下が何に当たるかを明かすことは無かったが、自らの脇息の下に何者かの毒ナイフが伏せられていることを知っているような風だった。握り手は何者か、シャチか、イルカか、チンパンジーか犬か。それとも人間に最も生命を遊ばれ虐げられる家畜:ニワトリか。想像もつかぬことだがナイフの柄が最も馴染むのはニワトリだろうと創造力を掻き立てた。マウスでも相応しい。科学の発展は人類と共にあったが、実験体マウスも共にこの道を歩んだと言えよう。人間の壮大な計画として、人間の機械との融合というものがある。手にマイクロチップを埋め込んだ人間は最早周知され、常識と化し、目新しさは失われた。彼らはまだ手より識別信号を発し、鍵を開けたり勘定を済ませたりすることしか出来ないけれど、いずれ(もう水面下にて進行している可能性は否めない)脳にもマイクロチップを埋め込む人類も登場することだろう。それで何が得られるかというと、これは想像に固くない。脳のアップグレードである。単に記憶容量を増すに留まらず、処理能力の強化、情操の増幅、電気信号の高速化も有り得るだろう。伴って肉体も耐えうる進化を済ませねばならないが、そうなれば人類は完全に進化したと言って過言でない。オーガニズムの連中には申し訳ないが、これが最も考えうる最速の進化道である。
だが考えてみれば人間より早くその処置を施されている生物がいるだろう。医療にせよ何にせよ、科学は実験、論文、発表、認可、臨床という段階を経る。これはあまりに遅滞に尽き、人類の進化の歯止めとなろう。実験体マウスは実験の段階で既に進化の片鱗を獲得しており、そういう意味でマウスの進化は人間よりも確実に先立つ。倫理に阻まれそういうプロセスを経る以上、人間の科学による寵愛を真に受けるのは実験体マウスといって他にない。そして人間の科学に対する真の奉仕者もマウスといえるだろう。
こうして考えていけば、彼の言った玉座強奪も隣人の噂話より信憑性に満ちた話に思えてきた。ただし、曰く、すべては大いなる作用によって定められた運命を辿らざるを得ない以上、そのナイフを何が握るかは筆を握ったそれに専ら委ねられている。無意味な妄想だ。
「画一化」という言葉がよく思い返される。他ならない、俺たちが市長を無視して行った会話の中で、彼が最も用いた言葉である。
不思議なことに、彼は悲観主義に傾倒しながらも繁栄を否定していなかった。しばしば、死ねばいいなどと口にすることはあれども、それは悲観主義者特有の鳴き声のようなものでしかなかったように思える。意味はなかったろうか。
彼は人類の目指す方針として画一化という表題を提示した。狂えるものもマトモなものも皆手を取って、WAになっておどろうという平和的なテーマであるはずもなく、表現としては淘汰や間引きが相応しかろうことを言っていた。一理なくもないけれど、あまりに非道徳的に尽き賛同しかねる意を表すると、やはり彼は口舌を振り回して画一化という神の名を叫んでいたように思える。
本当に申し訳ないのだが、俺はこの時点で友の凄絶たる雄弁に消耗してしまっていた。そのため、多くの内容を零してしまっている。補完できるなら補完したいが、叶えるのは難しそうだ。
最後に彼は梶井基次郎の『檸檬』に連ねられている『冬の日』という短編を薦めてくれた。死を想うものの死に対する姿勢を詩的に描いた作品だと聞いた。冬は徐々に浅まりつつあるけれど、春休みにでも読んでみようと思う。大いなる作用の運命にあった人間の小説を。
俺からは宗教を薦めておいた。

成人の日。集い、別れを告げる
歴史をなぞり、改めて我が人生を想った
何かを成すにせよ、成さないにせよ始末は付けなければならない
空に投ぐ決別を柔らかな雲が受け止めていた
雲は千切れ、取り残された
そして二度と混じらぬよう歩を乱した