モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

お前の故郷でミンミンゼミは鳴いているか

8-18(日)
今、帰路。来た道とは異なり、しまなみ海道を経て三県を跨ぎ、帰路。
車内は消灯し、バスの揺れるにつられ、脱力しきった首が左見右見する。隣人の息が腐っている。だからこそ、その中で未だ居直る首があったのだ。
眠れぬがままに書き出した文章であるから、初速に欠ける。減速は紛れもない停止、ゆえに死だ。
旅の振り返りをしようにも、彼の地・足並みの緩まった地で経過した時間は、やはり薄味でとてつもなく大きい。例えば、私が白滝公園に行ったとき、山に切れ込んだ滝は夕暮れの影に潜んでいたわけで、私は暗みと生物の臭いに臆して踵を返した。白滝公園のために用意した二時間だったが、それは無限にも思える空漠となった。あのときを思い出そうとしても、では一体どこを切り取れば思い出として相応しいのか分からず、苦悩の渦に呑まれては浮上の兆しなき深海へと沈む。



そういえば、あのミンミンゼミの勘違いをこう解釈してみたのだった。
私は、ミンミンゼミ鳴くこの地で、もはや無限にも思える時を経過させた。田舎は、都会とのバランスのよって時の流れが緩やかになるため、ミンミンゼミの鳴き声は、その長大な時間を想起させたのだ。
三方を山に阻まれ、反響し、セミの鳴き声は人の住まう平地へと収束・蓄積する。土地のいずれであれミンミンゼミの鳴き声が止むことはない。遠い音から、どの方角に向こうとも視界に入る山から、我々はミンミンゼミの情報を得続ける。
だから大洲は擬制された故郷であり、郷愁はミンミンゼミによって起こる。
思えば、あれはクマゼミ、それもメスだったからそういう思い込みが可能だったのだろう。
この前日、臥龍山荘にておばちゃんと少し話をした。
「ミンミンゼミがあそこで鳴いています。私の地元では滅多に聞けないですからね」
「自分は兵庫…それも都会、というかまぁ、」
「ええ、一人旅です。休みのうちに」
このとき確かに捉えていた故郷の像、凝視さえしたミンミンゼミの形状をどこにやってしまったのだろうか。
知っている。クマゼミは故郷で鳴いている。容易く轢殺され、死骸すら身近にある。
あの感情の正体は、この緩慢の土地に対する憧憬と真の故郷への正しい郷愁の渾然だ。
私は、大洲──というより、緩慢の町──に住みたくはないけれど、この地で産まれたかった。
私は、尼崎──というより、性急の街──で育ちたいけれど、産まれたくはなかった。
双方を良く知ってしまったがゆえに、これら願望は交ざり、ただのクマゼミを歪にひん曲げた。
もし仮に、彼が本当にミンミンゼミであったなら、単に目新しさを受け容れるだけだったに違いない。クマゼミが鳴けば、それは単なる郷愁でしかなくなる。
これがあのミンミンゼミの正体である。ミンミンゼミは、クマゼミの体を成したミンミンゼミでありたかった。当然、叶うはずもなく。



「あまりに暑い」と零す。
日に晒されたコーヒーフレッシュが変質しているのか、エスプレッソに混ざらず、浮いている。これまた外に放置されたマドラーで掻くが、散り乱れるだけで物として分離している。見てくれは悪いが大勢は変わらない、それに高校生の用意したものだからと諦めをつけ、醜きはなるべく見ず一気に飲み干した。
喉を過ぎる冷感は一時の涼を運んだけれど、日射は絶望的に鋭い。空は依然、無限に青く、無限に高い。そして変わらず、ミンミンゼミが鳴いている。
蒼穹の向こうで、やはりクマゼミは鳴いているのだろうか。
彼らの絶唱が渇いた喉に響いていた。