モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

音楽

ここ最近で音楽をかなり聞くようになった。
その感性については自信が無いから、聞いている曲や歌を明かすようなことはしないけれど、音楽は日常の一要素となりつつある。
前まで、私は愚かなことに、街中の、イヤフォンを付けて登校する高校生やヘッドフォンをかけた大人達を「気取った連中」だなんだと揶揄していたものだった。ちょうどその時期は──高校生であり自転車登校が多かったため──自転車による事故がよく耳に入っており、そうした大抵は「イヤフォンを付けていた」という事実に蛍光ペンが引かれていた。
事故を起こすのは愚かだ。その点はやはり間違いなかろうが、イヤフォンで音楽を聞くことまで愚かであるはずがない。そこところまで一緒くたに考えてしまうくらい、私は幼かった。幼かったがゆえに、倨傲だった。
それもこれも、スピーカーを買うという英気に断ち切られるスフレだった。柔く、脆く、不安定に違いない。
スピーカーを買って、じゃあ折角だから音楽を聞こうと思ってYouTubeに繋いだ。
気付いたのは、音楽にもコントラストがあること。モニターに付属されたおまけみたいなスピーカーは、いわば平成初期のカメラで──それはそれで味があるかもしれないが、色彩という面において──、買ったスピーカーから流れるのは昨今のカメラで撮影された秋深み半ばの山のようであった。

音楽の抑揚を知って、物語みたいだと思った。
サビはどうして介在するのだろうと考えたからだ。ずっと美しい音色で奏ればそれ以上のことはないだろうと思った。だが、音楽には果てしない抑揚があり、波を連ねて収束する海のように、また嶺を連ねる山のように高低差が存在する。
感じるのは、サビが、波の高いところや嶺の頂点であって、それ以外のパートは、遠方に霞む高波を見やるように、麓から頂を見やるようなものであって、すべては絶頂のために用意された道程であるということだった。
物語にもそういった様相はあり、見てほしいシーンが、また伝えたいことがまずあって、そこに至るまでにあらゆる伏線を編み込んで、丁寧に織り成すものである。絶頂はそこにあるし、作者の本旨もそこにある。
音楽に関して、それはもっと顕著である。完全に主観的な話であるけれども、ひとつの曲または歌には、好きなパートとそうでもないパートがやはりと言って存在し、大抵はサビであることが多い。その曲や歌を聞いていない時でも、ふと思い浮かべるのは好きなパート(サビ)であり、まるでその曲や歌を代名するかのように流れて止まないものだ。それ自体は普遍的な話ではなかろうか。
例えばこれが普遍的な話であるとして、ではこれは音楽の理論なのだろうか。というより、万物の法則であるよう早計に感じてしまっている。作者が聞いて欲しいのは、他ならぬサビであって、我々が尊重すべきなのもサビに違いない。

音楽を聞いていれば必ず好きなパートに至るということに安心する。山などは、途中で登頂を断念することがあるからこの点は違う。音楽にはそれがない。寧ろ、道は丁寧に舗装され、絶頂へ至るに様々な手引きを用意している。まるで絶頂こそに意味があるように、私は音楽の途中で離席するのは極めて嫌だ。寧ろ、そう仕向けられている。

音楽は日常の彩度であった。より輝かしい生活のためには不可欠である。理解してないわけはない。映画を見れば、場面の高まりに乗じてBGMが流されることもあり、そうした場面は大抵重要で、心に残る。

「音楽なんてくだらない」
そうした思いの発端、小学生の頃、俺は音楽の授業が嫌いで、発声も、歌唱も、演奏もくだらなかった。リコーダーは分解して遊んだ。ピアニカは6年かけて破壊した。中学生になっても絶えず、今度は一回り大きくなったリコーダーを分解した。卒業後は真っ先に捨てた。高校生になると、音楽は選択科目になった。もちろん取らなかった。兄が5万をギターを買った。そこまで上手じゃなかった。合唱コンクールほど忌々しいものはなかった。破壊は、音楽そのものへ向いた。自然の音に耳を傾けた。自然は自然で、良い音を奏でた。だから──
「音楽なんてくだらない」

嗚呼、自慢のニヒルを見せびらかした
あの日の自分を潰してやりたいよ