モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

愚かなりや

高校から大学へ上る際、俺の友達は散り散りになってしまい、同じ大学に通うのは一人のみだった。

「大学生はモラトリアムである」
その友達はよく言った。
正直に言うと流して聞いてしまっていたし、「モラトリアム」自体の意味も田中義一の張った政策のものと勘違いしていた。
それでは意味が通らないので、その時点でしっかりと調べておくべきだったが、俺はやはり不真面目であるし、そのままにしていた。
田中義一は近代の人間であるから、またその時代に馴染み深い「大学」という言葉によく似合う。全く知らないけれど、そうした時代の学生が用いたスローガンか何かと類推していた。

「モラトリアム」
一義的には支払猶予であるが、転じて、社会人になるべき自信に欠け、卒業を先延ばす学生のことを言ったりするらしい。
調べたのは最近ではない。2ヶ月ほど前か、たまたまそういった類の調べ事をしていた時にその二次的な意味を知った。また、調べた時は特に何も思わなかった。
なぜ今になって恭しく文に起こしたのか。

特性として、精神的に参ると空想に耽ることが増える。種々のことが気にかかり、浮かんでは消え、また浮かぶ。「モラトリアム」もそうした一部に過ぎないはずだった。
問題の究明は迅速だった。「なぜ参っているのか」という問は「バイトをしているから」以外の答えがなかった。
バイトは社会に関する活動に他ならないと俺は思う。だからバイトをすることは社会に出ること、それの先触れであるように認識している。

「大学生はモラトリアムである」
友達にバイトを辞めたやつがいる。
彼は大学に通い、同好会に属し、よく遊び、よく学んでいるかは分からない。
これは、俺の勝手に抱く「大学生」の純粋なイメージに似る。
「モラトリアムとはこういうことを言うのか」などと思ったが、その言葉の持つ悲観じみた響きは、彼には到底似つかわしくない。
では、現にそのセリフを言った友達はどうか。
彼はバイトをしていない。代わりにーー果たしてそうかーー部活動に精を出している。会話をすればするほどに、部活動に対する鬱屈が露呈するように見えた。吐露は苦しみに充ちていた。憎しみも少なからずあった。だが二年して、彼はついに辞めなかった。
「モラトリアム」の意味に似るか。社会に出たくとも部活動に縛られているように見えなくもない。それ自体は俺の知るところではないけれども。

「なぜバイトをしているか」に対する答えは二三あった。先程の「社会経験を積むため」というのも少なくないだろうが、多くは「金が必要なため」だろう。
「なぜ金が必要なのか」
それは、有り体に言えば自由のためだろう。
大学生はそれ自体多くの金を要する。学費は無論、部費や会費。食費や定期代も考え、その上で遊びに割ける金を用意しなければならない。
そんな莫大な金額は、すべて親から出るかもしれない。でも出ないことの方が多い。
財布から金が湧くわけでもないなら、我らは如何にして金を稼ぐのだろうか。帰結する。

金は血であり、バイトは肉だ。
肉を食ろうて血を作る他なければ、我らは死ぬ以外ない。
そもそも疲れていた俺はバイトに行きたくなかった。そうして、庇護の念でバイトに通うことのバカバカしさを思ったのだった。そんな時に偶然出た「モラトリアム」という言葉に縋った。
「大学生はモラトリアムである。なら、バイトに行かなければならない、社会の軽経験をしなければならない状況とは何だろうか。まったく愚かなことだ!大学生であるなら、モラトリアムなら従って、バイトなんてしない方がよほどマトモである!」
だとか。

勉学の道は果たして退避路だろうか。
昔、今では時代錯誤の考えかもしれない。ただ俺のうちに眠る考えである。
「大学生は勉強に専念しろ。バイトなど、言語道断だ」
この場合、勉学は退避先ではない、むしろバイトを軽んじ、勉学を重んじている。
「たしかに」と思えるくらい真っ当なことだが、バイトを軽んじるとは如何か。それは、学者にでもならなければ社会を軽んじることと同義であって、そうした中で「モラトリアム」などという揶揄は生まれようもない。
「モラトリアム」難儀である。

結局、社会から逃げることだ。
俺も疲労の風に当てられて社会から逃げたくなっただけに過ぎない。俺が「モラトリアム」を大学生の真の像と心得るのも、自ら苦行に打って出ている滑稽な現状をどうにか取り留めようとしたに過ぎない。「モラトリアム」は揶揄であるし、それを知っていながら目指そうというのは倒錯的で頭がおかしい。思えば友達も「大学生はモラトリアムだから“しょうがないよね”」という用い方をしていた。それは落胆していて、しかしながら自己肯定に充ち溢れていた。
結局、「モラトリアム」とはそういうものだ。認めているのは自身だけ。社会はそうした情けない様相を一切とも許していないのだろう。

こう考えることで己のうちに救われるものがあったか。「モラトリアム」は光に見えた。だが光は澱みを生むし、そもそもそれは光なのか。今となってはそちらの方が澱みに見える。ともすれば、多少は救われているのだろう。だとしたら我が精神は安いものだ。実質は何も解決していないのだから。
では、光は社会進出か。それは尊大な嘘だ。
ならば、光とは
暗闇の大学生活に光はあるのか
大学生のうちにそれを見つけることが出来るだろうか