モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

あの産声が今も尚聞こえている

 我々はいつも叫びながら産まれてくる。一体何が欲しくて叫んでいるのか。それは恐らく空気だろうけれど、それとは別に、以後の人生においても、欲しいものは沢山出てくる。あのときの悲鳴は、きっと今も続いていて、自らの生を満たさん為に、欠如されたものを求めん為に、我々は、今も尚、叫び続けているのだ。

 我々は生より遠く、また死よりも遠い。故にこそ、あの叫喚の意味を知らないのだった。

ウマ娘が面白い理由

 黒羽と淑女がいた。黒羽は我が物顔で錆びた鉄橋を渡る。コツコツ。無機的な爪牙。雑踏という静謐の中で黒羽だけが音を生む。その悠遠なる闊歩は私と淑女にしか聞こえない。だとするのなら、私は淑女であり、淑女は駅員だった。パウン。そうして橋の主が現れた。朽ちた橋が戦慄き、巨獣の凱旋を歌った。絹を裂くような悲鳴がどこかで挙がり、突如として静謐は雑踏をも呑み、またすべてを遮った頃、私は黒羽舞う風の、揺らぐ淑女の髪を見ていた。彼女の髪もまた黒く美しかった。そして、乱れし髪を直しもしない彼女の目は、黒羽よりも艶やかで、また鋭く有った。私ではなかった。淑女は黒羽であり、黒羽こそは淑女だったのだ。その身に宿りし漆黒の爪牙。駅員の促しによって巨獣は眠り、静謐は貫かれ死んだ。ウマ娘 プリティダービーって名前ダサすぎんだろ

 

 いいのか?そんなこと言って。知らないよアタシは。どうなったって責任取んないからね。ただ──決意表明として──言わねばならんことがあるだろう。それは、俺がウマ娘 プリティダービーに対してずっと保留してきた想いである。

楽しいのか?──わかんないよ

楽しいのか?──わかんないよ

…──わかんないよ

 わかんねーけどサイレント(ス)スズカの髪の本数は数えたのでわかる。52本(暫定)

 最悪だ。キャラが可愛いことしかわからん。しかし、キャラが可愛いことでわかることがあるとするなら、それは俺がキモ・オタクだってこと。そして俺はキモ・オタクであるため、この推論は正しい。ウマ娘 プリティダービーのキャラは可愛い。オゥケイ(ネス)この前のPKサンクスって返しはかなり面白かったな…

 文章書いてると手が冷えるのってなんなんだろうね。あーあ、こんなことなら言わなきゃよかったな。ウマ娘 プリティダービーが面白いかどうか?そしてどう面白いか?なんて説明しようがないでしょ。面白いからやるんじゃなくて、やってる現実を解釈すれば面白いってことになるんだから。やってるなら面白いに決まってんのよ。それでいいでしょ。結局こうやって手冷やしながら書いたって本質には届かないわけ。しかし、言語には一定の公信力があるから、その本質の朧な媒体が、他者の目にとってはあたかも本質であるように見えちゃうのよ。そうなったら最早深奥に届くことはなく、幽邃の景色すら覚えぬ泡沫と同じ、儚い末路に散りゆく涙も枯れし刻なのよ。結局そういうことでしょ?俺が言いたいのはさ。だから信じないでよ。言葉なんかしょうもないんだから。自分で見つけたものにしか意味なんてないよ。知識なんてものは存在せず、経験だけがこの世で最も清く正しい、信じるに値するものなんだから。

  ウマ娘プリティダービーの面白い点は以下の通りです

・勝利ライブにモブウマ娘が闖入したこと

・4000円課金しても何も増えなかったこと

・・・・・・・・・・・・←余ったナカグロ

 

 四人は物陰から敵性生命体の様子を窺っていた。それは見世物としては到底品のない猟奇ドラマであったけれど、この惑星の文明を二月で破壊した膂力を前に、彼らは勇気ある演者〈ヒーロー〉になどなれるはずもなかった。今まさに同胞が殺されようという瞬間でさえ、ある種の危機回避的認知が作用して、空間と自己の間に見えざる隔たりを設けるばかりであった。それだけが彼らの取り得た唯一の行動であり、また人類の文明が殆どの確率で破滅する最も揺るぎない根拠でもあった。

 ただ彼らは幸運にも我に返る機会をもった。それが、ただ正義や信念と云った麗しいおべっかではなく、フィクションとノンフィクションを厳然と隔てるそれそのものの差異、生理に対し直接的かつ徹底的な嫌悪感であった。

 燻った硝煙と、死臭。死臭など嗅いだことはないが、それでもこれは死臭だと確信をもって言える。ケニーは、おのれの胃腑が覆ろうとするのに耐えながら、実直な感想を脳に刻んでいた。これが死であり、無気力であり、絶望であり…死である。内に抱いた恐れに音も立てず震え、最も矮小な存在としての自己をそこに見ていた。

 微動さえかなわない──それが、動けないのか、それとも動くべきでないのかさえ悟ることなく──唇に、僅かに篭った力を集め、言った。

「絶対に動くな」

 それが、即席に組まれた班の長としての全力だった。それでも、緊迫した糸をたわませるには充分の余地であった。

 ここにいる全員が全く同じタイミング息を吸い、そして吐いている。

 

 ウマ娘 プリティダービーの特徴というのは幾つかある。それは、殆どプレイヤースキルの介さない平等主義のゲームであること。それは却って、全く対照である資本主義と換言することもできる。そして、育成を趣旨においていること。リリース間もないこと。ウマ娘のグラが最高にキュートってこと。でもそれは俺の個人的な感想だから数に入れないでね。

 このなかで俺が最も魅力に感じていることは、すなわちリリース間もないことだね。攻略情報が出回ってないからこそ自分で楽しみを見つけることができる。自己流の育成ができる。つまり、どこまでも自分本位に進めていけるってところが、ウマ娘 プリティダービーの最も魅力的な点だと思う。

 尤も、以前このゲーム一週間後もやってるか分からんと言ったのは、そういった理由もあって、つまり、攻略情報が一週間で編み出され、強いウマ娘を育てる磐石が整えられ、残するはそれを機械的に作り出すだけの作業ゲーになったとしたら、それはくそつまんねーから辞めますというところでした。本当の話──随分譲歩したが──一ヶ月後にやっているかは本当に分からん。

 ソシャゲだつって今まで社会性、つまり話題の共有性を重んじたことが一切ないから、友達と一緒にやってる事実もそこまで拘束力のあるものでもなし、邪智暴虐の友人に唆されて4,000円課金したけどもこの程度なら普通に棄てられるからこの点も拘束力にはならない。

 でも本当にやめているかどうかは分からない。惰性は俺の中で最も確かな力である。

 

 そうして、呼吸が途切れた頃、アナラインが誰よりも鋭く言い放った。

「助けよう」

 逃亡者の一団と殺戮者の距離はおよそ500m。見たところ一体。単体の敵に対する心得はあった。不意打ちであれば、きっと問題はない。しかし、そのリスクを負う必要はあるのか?メリットは?最重要項目である班全員の生存を脅かしてまで守る正義など… …

 ケニーの額に険しい谷が刻まれた。その表情にはどこか哀愁さえ感じられた。彼が次に口を開く頃には、きっと残酷な宣告がなされるのだろうと思った。

 

でも実際ソシャゲってみんなでやると楽しい。これは久しい感覚であった。共通の話題を獲得し、共通の琴線を享有する。そういうのは、ソシャゲの最もらしい社会面だと思う。仮想だが、ウマ娘 プリティダービーはひとりでは絶対に始めなかった。友達に勧められたからこそ始めたのであって、この悦楽には俺単独では辿り着くことが出来なかったに違いない。

 そういう点で言うと、ウマ娘 プリティダービーであることが必ずしも重要では無いのだろうと思う。俺は、暇つぶしに飢え、話題に飢え、友好に飢えていたのであるから、それを満たせるのであれば何でも良かったのかもしれない。それが、今回はたまたまウマ娘 プリティダービーだったというそれだけ。そういうのもまあいいんじゃないかと思う。

 ウマ娘 プリティダービー俺は面白いゲームだと思う。育成して、結果を出すってのは万事に通じるところがあると思うし、擬似的にも本質的にも面白いと思うよ。

 

 「アナライン。お前の正義は……」

「陳腐?」

 「いや、最も崇高だ。お前が行くというのなら止めはしない。でも、それは独善だ。だから、行くなら、お前一人で行け。俺は君がいった後、必ず讃える。卑賤な生より崇高な死を選んだお前を讃える、墓を作る。」

 ケニーには分かっていた。自分の正義も、アナラインの正義も、そして何より、おのれの勇気のなさも、ただ、自分の立場を考えれば、時に理性によって正義を捩じ伏せなければならないこともまた、痛いほど分かっていた。それゆえに、脅しにさえならないことを言ったのだった。

 「ケニー」

アナラインが呼ぶ。その眼差しは依然鋭かった。

 「貫いて死ぬか、悖って死ぬかよ」

 ケニーはその時初めて理解した。自らと、この惑星の行く末と、彼女の視線が、もう既に絶望を知り、その末に、望むべき破滅の美しさを知っていることを──そしてそれらがすべて、今までの自分に欠如していたものだったことを。

 それでも、彼の顔には苦悩が満ちる。哀切に歪み、信念と合理性の狭間で窒息していた。ひとりの人間として行きたいのか、行くべきなのか。班の長として行くべきでないのか、それとも、ひとりの人間としてさえ、行けないのか。ひとりの人間、また唯一の班長として、呼気に餓え肺腑は覆る。膨大な痛みが堰を切り、涙が、滅びゆく星に落ちてゆく。

 彼は膝から崩れ落ち、音さえ立たなかった肉体が、生気を取り戻したかのように動性を得た。彼はひとりの人間として、あのすべてを喪った日から甦ったのである。

 そうして、大地に二滴の産声を垂らしたケニーに、アナラインが手を差し伸べた。

 彼女は瓦礫の砕屑を弄んでいた。彼女の手には運命が握られていた。そしていつか、運命さえも弄ばれるようになるのだろう。

 その掌上の宇宙に想いを託すべきか。ケニーはその時、最も非理性的な好意によって、班の重大事を決したのだった。

 

 ウマ娘 プリティダービー

朔日

 2月が終わり、朔日を迎える。2月の去る足並みは早く、皆がその到来を、半ば驚愕の面持ちで見ていた。しかし、それも最早囃されすぎた調子であり、私自身は水底の礫の様に無関係を徹し、憮然というでもなく、それはそれとして三月の風を感じていた。この風は、かつての二月を攫った。きっと三月も、この風と共に去る。そして今度は、明確に憮然と、或る人生の変節に立ち会うのだろう。

 三月一日、私は正午から用事を持った。前日は翌午前三時まで眠りに至れず、翌一時半までは活動の状態にあった。三時幾分から九時まで眠り、朦朧と共に起床した。

 正午に阪急淡路、そうした事情さえ判然とせず、家から淡路まで幾ら掛かり、であればいつ家を出れば間に合うのかも悟らぬままだった。更に当時は、淡路島出ないことは確かだったが、JRか阪急かについては未だ判らなかった。

 取り敢えずとして日課を済まし、あとは親と同在する気まずさに急きたてられ、家を出た。平日十時半の往来はほどほどだった。三月だから朔日だからと言って変わらない、平日の毅然たる様相を見た。気温も瞭然と変わったものはなく、夜に蛾を見たくらいだった。

 預金を卸し、記帳する。早春の朗らなれば、出費も、それに伴う心労も穏やかかと思われたけれど、その緩やかであり確かでもある減退は、鋼鉄の硬さと冷やさかで私に囁く。私が、四年かけて到達した数字だった。

 梅田行各駅停車、河原町行特急、車窓の景色を眺めても、動くものは外界であり、私自体はずっと停滞しているような心持になる。校庭、赤いジャージの生徒たちが体育の授業に勤しんでいる。活性。車窓を眺める私は、不活性。演者と観客。不活性側が動いていることなど有り得ない。動いているのは、いつだって景色なのだ。

 正午より数分前、阪急線淡路駅に着くと、先ずJRに向かった。集合場所は阪急淡路だった。誤謬という点で言えば、そこに介した三方が各々誤謬を持っていた。私は、集合場所がJRであるという誤謬。二人目は、目的のラーメン屋は西側出口が近いという誤謬。三人目は、東と西の誤謬。思い返せば、一度たりともまともに集合できた試しがない。ただ、皆が誤りを備える点で、責めに帰し得るものはなく、平和と言えば平和であった。

 前衛的なラーメン屋であった。サロン(画廊)じみた通路があったという点、アホロートルが飼われていたという点で前衛的なラーメン屋であった。その中で、塩のことを「おしお」と訳していたのは直感的にしゃらくさかった。しかし、そういうしゃらくささこそ、停滞を打破し得る余勢を生むのだろうと思えば、却って一握の趣を感じられた。型破りといえば調味料の箱に「バランスブレイカー」と書かれており、普通にコチュジャンが入っていた。調味と題して「バランスブレイカー」は皮肉だろうと思われ、手をつけることはなかった。ソシャゲに手を付けていれば、バランスブレイカーが良い意味で使われることなど決してないと分かる。だが敢えてそれをやろうという、奇抜な趣意の店だった。

 その後、淡路から十三まで歩いた。なぜ鋼鉄の函を使わなかったのかは分からない。分からないとしておくのは、当時の余韻をそのまま現存する為である。あの道程に意味を見付けられたなら、私はきっとそれを書くだろうが、現時点で意味さえ悟らぬままに書くのは勿体ないのである。しかし、そうして留保した記憶が、後生に意味を為さず霧散することは多く、私は或いはそういうことを既に予期しているのかもしれない。

 十三から西北に向かい、映画を見た。結末以外は納得行かれる映画だった。

 西北から梅田に向かい、福島まで歩いた。梅小路が閉ざされていた。

 馬肉を食べた。掌上に載せて食う馬刺しは、人肌に温められ最悪に不味かった。

 その後、本能的帰巣の欠如されし物欲しさにせがまれ、我々はカラオケに行った。翌四時まで徹し、梅田のシャッターが開くのを見て、おのおの帰宅した。

 雨が降った。家に帰ると風は止み、足許から迫る寒気に耐えかね風呂に入った。

 空が白み、洗濯機が動き、日々の詩が転結を待つ頃、私は眠った。


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【おい!!!!!!!!!と思ったこと】

・一日通して原神の話をするなーー!!!!!!!乗れない奴がいるだろーー!!!!!!!

・しょーもねーこと言いまくるなーーー!!!!オモロが低迷しまくった末にゴミみたいなオモロでも笑うようになっちまっただろーーーーーー!!!!!!!

・何が“死ねMY RAGEカード”だーーー!!!!お前が死ねーーーーーー!!!!!!!

・飯屋でエロ画像見せびらかすな

・他人にぶつかってもペコペコするなーーーーーーーー!!!!以後の人生においてなんの関わりもない人間に愛想を撒くなーーーーーーーー!!!!!!!!謝られても鬱陶しいだけだろーーーーーーーー !!!!!謝ったら全部許してくれると思うなーーーーーーーー!!!!キモイ話題しまくってる時点で既に我々は許されてないんだよ!!!!!!!!!!!許されるか許されないかの二元論でしかないなら許される意味とかないだろーーーーーーー!!!!!

・なぜ俺がずっと肉を焼いてたんだーーーーーーーー!!!!!!!なんか言えーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!

・死ねMY RAGEカードがちょっと巧かったからって擦りまくるなーーーーーーーー!!!!!!!俺は映画館以降はつまんねーノリだなと思って聞いてたぞーーーーーーーー!!!!!!!

・酒強いとか言いながら小便しまくった末に普通に寝るなーーーーーーーー!!!!!!!強さの先に何もないのかーーーーーーーー!!!!!!!強さ自体は意味がねーぞ!!!!!!!強さの先に初めて意味が宿るんだぞーーーーーーーー!!!!!!!

・タンバリンうるせーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!

・たい焼き食えーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!

・部屋を好き放題散らかした末に一切片付けをしないのはクソだーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソだーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアが命じるとかいうノリは最初からおもんねーしおもんねー顔してることを悟れーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

・なんの重みもない大好きだを繰り返すなーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!

・最終的に垂直落下思考に陥って同じノリばっか繰り返すなーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

・俺はシラフだーーー!!!!!!!!!!!!!!

・カラオケやっぱつまんねーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

・日記を書けーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!

・早朝の未明なれば心も凍るほどに寒くあれーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

・鳩羽つぐを貶めるなーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!お前は誰だーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!

・始発なのに結構人乗ってんのはキショい

・雨降ってんじゃねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!

・感性の相違を場の不適合に換言するなーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!

 

感謝

なんでチョコがあるんだよ

 15日だと油断してバイトに出たらチョコを貰った。そしてそれ以上は何も貰わない。例えば、このチョコの由縁とか、渡すことに関しての気心とか、そういうことを考えるのはもはや無粋であると既に承知している。しかしながら、悲しい現実として、こんな文章を起こしている時点で、我が童心は平静を保てていなかった。それは包み隠すべくもなく露出した、俺を底辺カス太郎たらしめる証明書であり、自家中に消費しきれぬ毒──中毒──を無様に排外しているのだった。

 単に言えば、このコミュ障よろしく会話が頓挫したことに対して、扱い上の不慮があったのではないかと苦心している。もっと良い繕い方があったのではないか。あったに違いないが、ボケカス過ぎてまったく分からん。やはり先述した通り、我関せず様のスタンスを取っていれば、この具体性の媒体たるチョコの消化は滞りないのであるが、それはただ自己のため弄した、チョコの有意性自体を消し潰す酵素であって、渡した本人の期待する消化方法ではないような気がする。無論、好機に出づれば却って空回るやもしれん。幾つか会話を紡ぐ文句は浮かんだが、いずれも不興を買う可能性を帯びていた。例えば、「これは、なんか同僚に対する義理みたいなもんですか」とか。「義理」という文言がこの限定下において極端に不穏当である。ましてや、それを尋ねることなど…。事物に付される意義を探ることは決して悪いことではない。大概の会話はそうした事物に起因する行動・意思を探ることによって進行する。しかしその慣例も、この限定にあっては悪手も悪手なのだった。薮蛇…これは経験の浅さより来る恐れであった。何が出ても、或いは何も出なくても俺は当惑を招いて気を失うに違いない。とにかく、穏当を貫徹するにはチョコをチョコとしてみなし、チョコ以外としては一切認めてならん。この洋菓子の幾許か硬い外殻に眠るものを起こしてはならない。その形而上の実存を感じてはならない。もし、啓蒙の発するところに狂いがあるとするならば、きっとこの中に千変万化の宇宙が眠る。開かずは開き、滂沱たるエントロピーの波に熱死した骸が浮かんでいるのだ。その骸が、落ちた眼窩に扉を写している… …開かれたのだ。

 正しい選択をしたとは言わない。コミュニケの遮断が最良とは断じて言わない。嚥下も消化も正しくはない。困ったものだ。あくまで興味を本位に聞きたいことは山のようにある。「こういうのにはある種の社会的強制力があったんすか」とか「管区の違う人間に対する義理って一体なんすかね」とか「菓子作りっておもろいっすか」とか「なんか期待した反応とかあります?」とか「俺、どうすりゃええんすか」とか「バレンタインってなんなんすかね」とか「女の体面を繕う装置なんすかね」とか「そういうのってだるいとか思いません?」とか「渡される栄誉に与る人間の、その憂慮については考えたことありますか」とか「この責任から俺を救ってくださいませんか」とか「助けてくださいませんか」とか。等々、滔滔と黙せし猜疑の溢れんばかりであるが、ただ事実として受領したこの有意性媒体物を今更拒否することはできない。もとより拒否することもできなかったのであるが、俺が、そこで実直な力を有していたのならば、これを断ることができたに違いない。そうすれば、この意味のあるなしシュレーディンガーチョコレートは俺を通過し、素知らぬ誰かを案じる事になった。そいつはきっと無粋すら忍ばん人間であって、きっとチョコの意味を見つけるだろう。それが正しいか悪しいかを問うことなく、俺自体は意味の発見を期待し、それを歓迎する。誰か、このチョコの意味を見つけてくれ。なんで手作りなんだよ。

 

P.s.

 男の作ったチョコは無遠慮に食えてめちゃくちゃいい。

あー、原神ね

 

── なんの話ししてんの?

── あー、原神か

── 原神、ね

 

(今何日かログインすると10連引けるイベントやっててまた新たに始めようかなとか思ってんだよね。というのも、俺は本家の展開に合わせて男の主人公選んじゃったんだけど、いくつかシーン見るうちに女の主人公でも見てみてーなと思ったのよ。まあそんなもんはYouTubeで見ればいいんだけど、こう、鑑賞と実機はやっぱり違ってさ、イベントシーンだけ見るならYouTubeで事足りるんだけど、やっぱりどこかで動かしたい気分がある。今メインでやってるそれも結局主人公使ってないし、まあ可愛くないから正義に悖るって言うんでかなりつまんねー理由なんだけど、まあ一方で育成素材が割かれるべきところに割かれている点で助かってもいるんだけど、でもやっぱり本家のストーリー展開に即した選択をしておきながら本編で全く使わないというのは矛盾だし、そうした矛盾に対する後ろめたさもあんのよ。簡単な話、空くんも見ようによっては可愛いんだからつって育成してもいいんだけど、合理性を欠く育成方針は原神という媒体以前に俺の信条に悖る部分があって、そう簡単には決断できんのよ。そういうのって妥協だから、妥協を辞して何ぞ得べきと云うんだよ。俺の正義が、磐石がそう言うのよ。従って俺は今後空もとい主人公がデカ強くならん限りは育てるつもりがない。そして、課金要素のない主人公が今後強くなる見込みあるんすか?という抜本的な疑問を呈するものでもある。空くん、強くなれ。あるいはめちゃくちゃ可愛くなれ。むろん、両得もあり。

 なぜこう矛盾を孕みながら意固地になれるのかについてなんだけど、最近原神のストーリーが若干気になってんだよね。先言ったとおり、元から展開を意識した選択を取ってたからこうなるのは必然だったわけよ。まあ嘘なんだけど。一番初めは、これ空くんと蛍ちゃんは双子の兄妹なんですが、ストーリーの最序盤で決別するんすよね。そういったときに、俺は妹を失った兄という実体があまりにもしっくりきたわけなんです。妹想いの兄ってええやないですか。逆にこれ兄想いの妹ってリアリティ皆無じゃない? 妹想う兄の想いはこれ一種の義理的なもんなんよね。これ炭治郎も言ってたんですが、長男は生まれながらにして兄弟に対するあらゆる義務を負うのよ。そういった義務にある種束縛され一心に別れの妹を求める兄、この兄弟愛めっちゃ美しい〜〜〜そう思いません?これに対し、兄想う妹の想いってのはギャルゲ的文法でしかないだろうが! 思慕だの恋慕だのにせよ、妹は兄に対して何の義務も負わないし、むしろ負ってはいけない。最も奔放かつ独善的に行動すんのよ。そんでもって、その自由は長男が義理に束縛されるが故に約束されるんだから。極めて放縦にその受益はなされなければならん。でないと兄への示しにもならんでしょう。でもだよ。でも仮に、たとえギャルゲ的文法でも、兄にある種腐心した信頼を、信頼……依存?!あーーー依存をだね、依存しているのだとしたらよ。これめっっっちゃいい〜〜〜〜〜〜〜〜めっちゃいいの。これめちゃくちゃいいね。だってこの信頼は長男の頼り甲斐の巨大さを裏付けるものだから。妹に占められる兄という存在。兄弟愛だわ。双子めっちゃ仲良いらしい。これ一方的ではないんだろうな。互いが互いを大切に想ってる。その兄妹が決別した瞬間、両者を隔てた虚、虚空、俺はそこに吸い込まれてえ。いや吸い込まれてんのか。

 俺はいつだって年長たるものの強さを見ているし、若輩なるものの弱さを見ている。強きものの強き意思、そして、弱きものの弱いながら健気な意思。甲も乙もないわ。

 原神、新しく始めてもいいんすよ? でもね、結局俺はどっちもは無理だと思うの。失われるのは常に一方でなくちゃならない。失った側は、失われた側のことを考えるのは無粋だからね。盲目かつ一途に求めてほしい。だから、新しく始めるのは止そう。どうせ10連で0.6%引ける保証もないんでね。第一主人公を主線に据えるなら星5使わんし、星4配布されるつったって使わねーんなら意味ないしね。適当に見切って空くん育てるか。)

 

── 原神……そういえば、今日の給食ってなんだった?

── ひじき煮?

──ひじき煮かー

 

(ちょっと好き)

 

部屋

 部屋という空間の完全性を説いた時に、まず排されるべき人間という存在を考える。

 部屋が物で溢れかえると忽ち居心地が悪くなる。これは汚いものから目を背ける感覚というより、部屋の定量を侵すためであると思われた。部屋には定量がある。宇宙が熱的死を迎えるように、部屋という空間も熱的死を恐れるのである。部屋の物質量は限られており、互いが作用して空間を安定させる。この安定は物質の特性よりもたらされ、外物の障りさえない限り、熱量もエントロピーも不変なのである。

 時に、この完全性を害するものがある。物質に弾き出された変性の化身、人間。人間がこの空間に不和をもたらし、物質の定値さえ弄ぶのである。無機物は熱量をもち、エントロピーは無際限に増大し、部屋の密度は定量を横溢して、法外な質量を得る。それを中心とし、あらゆるものが歪みに取り込まれ、落下と回転の相互運動によって宇宙に熱的死を来すのである。

 ゆえに、部屋と人間は一切相容れない。一切人間による片利共生に付され、ただ美しかった空間は、魍魎の飛び交う地獄へと変転する。人間は魍魎の見切りすら付けぬまま、或いは魍魎の瓦礫に伍するを潔しとしてなおもこれを止まぬ。その限りにおいて、部屋と人間の調和は訪れない。

 

 ときに、これは妄想の小話であるが、人間がその変性する可能性を放棄し、物質界に悟入することがかなうのならば、このとき部屋と人間は、初めてある種の符号を迎える。そのために、我らは空間を慈しまなければならない。事物の先後について常に正しく、部屋を先として常に奉り、のちのちから加わり申し上げる謙譲を捨ててはならない。人は物質となり、空間のあるがままに安定を手にするのだ。

 ある人間が言う。「日常は自室にしかなく、自室以外に日常はない。日常に私があり、私は非日常にいない。」自己と自室との完全な融合が語気の端々に見られた。それは、その人間からの拒絶でもあり、その人間を内包する絶対の空間からの排斥でもあった。そうしたものを受け、私は尚のこと、その人間に近寄り難い感じを得た。

少年を追って

 少年よ。その幼さも、幼いが故の抵抗も、今では泡沫となって消えている。期することさえなく、ただ緩やかに、我らの希望は蒸発した。我々は敗北した。少年、この、或いは敗北とさえ呼べぬ雪辱をどう思う。どう、思うのだね。

 ある昼下がり、親の部屋を訪ねるとそこには少女がいた。少女は一糸纏わぬ姿で仰臥しており、面に焦燥を浮かべていた。私は、単にそうした状況に戸惑い、夙に部屋の戸を閉めた。その少女には見覚えがあった。黒髪、刹那でさえ見誤ることのないその艶は浅き経験において唯一無二のものだ。加えて、彼女がその事実として妹である以上に妹だという直感。最早間違う余地の無い彼女は、つまるところ月火ちゃんだった。阿良々木月火阿良々木暦の不貞を受けている最中であった。私が見た光景とはまったくアニメであり写実でない。私に写実の見覚えはなく、アニメの視聴歴しか存在しない。現にその化物語だなんだの回には心当たりがあった。しかしながら、私は恍けることが好きだから、それでもって父をからかったのだった。

「テレワーク中でも如何わしいアニメ見よんやな」

 父は失笑といった具合である。その失笑の加減がすこし残酷にも見えたので、いい加減に揶揄も止めにした。

「いや扉開けた途端、裸の月火ちゃんがおったからな」

 私が事情に通じることを明かし、父の嫌疑を払拭し、化物語という悪戯な作品に責めを移したところで、私は内々に得も言えぬ不和を生じていることに気付く。

 世間にあれば体面があるように、私は世間に見せる自己の体面を丁寧にコントロールしてきたつもりだった。常に自己が誰の前にあるかを念頭に置き、その次第によって会話も所作も変えてきたつもりだったのである。しかし、先の私は何故かそうした必要の所作を失念しており、あろうことか偉大な親の前で、架空の娘を「ちゃん」付けで呼んだのであった。

 親は決して峻厳という性格でない。しかし、そこは問題でなく、私が誰にどう見られたいのかというところに問題はあった。私は誰にとってもキモ・オタクでありたくはなかった。その中で、気の許せる人間を前にすればキモ・オタクに転じたが、その範疇に親まで許した過去はない。これを恥じるのには謂れの深い理由があった。

 私が過去に誰かを嫌ったとしたなら、それは往々にして兄だった。我が幼きは、兄の一挙手一投足すべてに辟易していた。それは、弟がゆえの対抗意識と云うよりかは、ただ単純に人間としてその不始末を嫌った。弟として、より近い人間として兄の所作を見ると、粗暴、短気、無思慮、無知と惨憺として嫌気が差した。何より立場において劣後する事実が厭われた。

そういう人間が、そういう奔放から、極めて無思慮に架空のキャラに対し「ちゃん」をつけて呼んだのである。実直に言ってキモかった。私にキモがられる可能性すら予想しない無思慮ぶりにも驚いた。遮二無二キモかったので私は絶対にそうならんつもりで生きてきた。だが気付けば、私は大抵のキャラをちゃん付けで呼んでいた。余人をちゃん付けで呼ぶ理由には詳しくなったけれど、そうなった瞬間だけは依然として定まらなかった。

 今でも言うように、私は女々しい男が嫌いである。何かと「お」を付けて言う人間が嫌いである。例えば「おなかがすいた」などと言うのは最悪であり、男なら「はらへった」と言え、という不変の規範が内々に存在した。思えば、私が余人に「ちゃん」を付けないのもそういった理由から来るのかもしれない。

 小学校3年だかに、他人への呼称を重んじる教育が為された。〇〇くん、〇〇ちゃんと呼びましょうという規範は私にとっての腐敗を意味した。そうした状況に遭っても、依然私は男女不差別のもと粗野を貫き、厳然とした思想規範を確保していた。以降、私は他者に対する慎みを持たぬまま、小学校を修了した。

 「ちゃん付け」でなくとも、他人への呼称を重んじはじめた瞬間の、最古の心当たりはバイト先である。そこでは関係性を規律するために、同期を「さん」付けで呼んだ。この「さん」でさえ、他人への尊重ではなかった。関係性の規律とは、正しく言えば関係性の拒絶であり、無関心を許す方便に他ならなかった。私が「さん」を付け敬語を発する限り、同僚という関係性が変容することはなく、絶対相互無関心を形成するという意味での規律だった。そうした呼称を通用する人間が、何かに対して「ちゃん」を付けたとして、それが架空のキャラだったとしたら、それはあまりにも終わっているしキモすぎる。そして事実、私は終わったしキモイ。少なくとも、それに気付かではいられなくなった。

 現実の人間との関係を謝絶し、架空のキャラとの関係を構築しようとしている。私は、ただ愛ある言葉として〇〇ちゃんと囁き、その受益を恣にしようとしている。それに留まらず、私は他人の目も憚らで自己の醜い内臓を現すようになった。

 私はお終いだ。少年、私を導くもの、過去よ。願わくは、その手で全てを救ってくれ。

 

 

〜少年を追って〜

 図書館に訪れるのは実に数年ぶりである。確か高校生の時に、脱水に苛まれ給水器に転がり込んでそれ以来である。本を借りるという正式な利用ともなると十年は下らない。

 時を経て色々刷新されたかと思うとそうでもなく。外装は無論、内装さえ幼少に媚びり付いた記憶とまったき合致をした。それは懐古の情念を沸かせるに充分であり、しばしばその潮流に浸っていた。

 利用方法はそれとなく覚えていた。端末をぶっ叩いて目当ての本を検索し、管理番号に従って本を探す。何も変わらない。端末の反応が悪いのさえ変わらない。ただ私だけが余計にデカくなった。大人になったのだろうか。

 開架はこどものスペースとおとなのスペースに隔てられ、前者では主に児童書を扱い、後者では文庫等を扱っている。幼少相応しく頻りに利用したこどものスペースには最早行くことはない。あの日、重々しくて嫌な雰囲気があったおとなのスペースに本を探しに行く。一抹の不順応はあったが、それを噛み締められるくらいの辛抱は付いたらしい。

 上階は更に厳粛で、一般利用の勉強スペースと、借出禁の参考書が集積されるスペースがある。時期だと言うもんで勉強スペースは真剣な顔の学徒が黙して集う。その厳かたるや、何かみてはならぬものをみた様な気さえする。多数の意思の集積地であり、不安と絶望と焦燥とが変じて毒気がする。片や参考書スペースはあらゆる所持物の持ち込みが禁止されており、聖域といっても過言でない。毒気と神聖の入り交じる具合の二階は、非常に混沌としており、折り返す階段はこれらの潮流を捻じ曲げ遮断するための措置かと思われた。余談、二階に行った理由は、本学図書館の構造として二階を訪ねることが多かったためである。

 結果として本は貸出中だった。貸出予約として個人券を作り、ホームページにメアドを設定して空手で帰った。ただその掌中には一握の懐古が握られていた。ある思い出の残滓であった。こどものスペースで本を読んでもらった思い出、古中生代の生物を扱った児童書を読み耽った思い出。ある一端一端にそういうものが挟まっている。個人券は昔、みずいろだった。作りも簡素で、単にラミネートされただけの柔い券。それが再発行されれば、しっかりした三枚袷のカードになっていて色もピンクだった。個人記録も更新され、自宅の電話ではなく俺の携帯に掛かるようになった。少年の影に覆い被さるような感触。手放し、帰することのない過去。夏休みの終わりに溜まった宿題を消しに行った。それでも尚集中の足らぬ私は、同室の、いくつか齢の上の女性を見てスケッチしていた。宿題は完遂されず、下手な落書きだけが残ったワークシート。休み明けにしらばっくれることを決意した瞬間。そういった記憶が日月の順行によって摩耗し、空間に漂う残滓となった。ただでも満足だった。一握さえあるのならそれで充分であった。

 その日、私は少年と家路についた。