モペゾム・ド・思考

抽象性、無意味、無駄、

種々

 成人の日であった。 

 思えば二年前、まさに我々の世代が成人式を迎えた日に会した諸君であった。「故に…」という理屈こそ持たなかったが、それでも幾許の数奇じみたものを感じざるを得ない。あれより二年が経過し、新たに成人となる人間を傍から覗く機会を我々は持った。

 その日、その店内で新成人の誕生が祝われた。俺としては成人になどなって欲しくなかったけれど、ただ空間に押し流されるまま一同の賛辞に参与した。その時に、当該人は抱負などを述べさせられたのだろうか。ただそれを思うと悲しくなり、自ら胸の空鳴りと共鳴した。いずれも、大衆の期待や羨望、それに則さんという心意気に向けられる祝福など呪い以外の何ものでもない。パスタを食い。ピザを食い。ワインを呷っては友人の戯れ言に茶々を入れ、時に美しい奥さんの子供を育む様に見惚れながらも、ただどこかではずっと、やむにやまれぬ心を悲嘆していた。

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 酒などは結局全然美味しくないのだ。苦味や渋味を浴び、喉を灼くあの感じは結局のところまったく好みではない。ただその苦難の先に、頂上の景色があるのだと盲信し、危うきに臨むのである。酒というものには奇しくも意味があった。俺が人生に求めるような苦難、悦楽、また悔悟そのものが、この酒を通じて理解できるような気がした。俺は愚かでありたい。炎に向かう蛾のように、ただ光輝を欲し、光輝に滅ぼされたいのだ。愚性そのものが、愛しさえした愚性の結実として愚かに死にたい。ただその信条に最も空虚なものが、俺は酒に弱いという事実であった。アルコール、毒性飲料。身を労る安全措置のすべてが、この虚しい夜に泣いていた。酒の旨味を知らぬ、高みを知らぬ。半端に朽ち落ち、暗澹たる現実に呑まれ、届かぬことだけは知っている。愚か愚かと瘋癲した末に見たものが、おぞましい程の現実回復現象だというのだ。狂える夜に狂えない。死ねない愚者の憐憫は、この五体を巡るアルコールよりも辛い。

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 悪夢を見た。何かが傷付けられたり、何かが殺められたりもしない。善も悪もないのなら、何故に悪夢と呼べるのだろうか。ただそれを回顧する時、私は必ず「悪夢」と呼ぶだろう。

 ある自尊心が高じて自己評価を誤ることが多くある。そうした三夜のうちに必ず悪夢を見る。悪夢の中で、私は自分より尊い人間に囲まれる。例えば絵が上手いだとか思った時は、より素敵な表現をもった人間が複数私を囲み、一斉に絵を描き始める。私にも公平に画用紙が差し出されるが、何より第一角目さえ恐れるために、画用紙が汚れることは終にない。私は恐れる。自らの稚拙が表出することを恐れる。自己陶酔の露呈を恐れる。恐れる。それはきっと自らに対する恐れであり、過大評価への戒めや否、理想への背信に他ならない。第一角目を打った瞬間、その空間の巧拙が定まる。巧妙で満ちた空間において、ただ一点の濁りとして稚拙が産声を上げる。それを産むことが恐ろしい。その忌み子の親として私が存在するのが恐ろしい。そうした帰責に私は耐えることができない。誇り高き自己の病める赤子…赤子を産んだとしたなら、俺は誇りを捨てねばならない────

 ────やがて起きたときには、自惚れが消え、自尊心が滅び、そして現実に回帰し、理想への研鑽が新たに始まる。必ず悪夢を見る。ある行動はある理想を想起しある悪夢の必致を招く。悪夢とは、そういった現実の装置なのだ。

自家中毒

 7時半。依然黙する頭蓋に囁きかける、YouTubeの自動再生。雨音の敷る六畳間に音はただ二つばかりとなった。自然と人工、両者は実存を云うように騒いだ。音の起床。生命の興り。沈黙は破られ、カセットは挿される。食器を寄せる。戸棚に挙げる。──”チェーンソーマンは鬼滅よりおもろい”──やかましいわハゲが。自分を納得させる為に引き合いに出される『鬼滅の刃』。そういう用い方は悪習という他ない。原初、事物に優劣はなく、評価もなく、ただ実体のみが存在する。なら、なぜ優劣というものが存在するか、評価を付けねばならないか。何かを納得させるため、自己の感想に具体性を補填したいがため…愚劣なことだYouTubeよ。人工の化身よ。具体性の虜囚よ。お前が何かを語るとき、必ず何かを犠牲にしなければならないというのなら、お前はこの乾いた脳のようにただ沈黙していればいい。吐き溜めが、二度と口を開くな。

 何かと言うと、結局一人で○○ができるというのは、単独でその行為の意味を消化できるか否かとだと思う。あるいは、あらゆる行動に纏わり付く必然の有意性をどこまで放棄できるかという点でもある。一人で映画を見に行くにしても、その感想を単独で処理できないなら行くべきではない。抱いた感想の正当性に不安を見出すなら行くべきではない。そして正当性を欲したために、確認や阻却のために他人を擁するような人間が、一人で映画を見に行ってはならない。

 感情には毒性がある。溜まれば排出すればいいが、劇毒でもなければ消化も効く。消化が効けば毒でさえない。そういうものを常頃から吐露してしまう人間は、何事も単独で行うべきではない。単独で行った末に、自家中毒に病まれるような人間に、そういうのは向かない。

 

 『チェーンソーマン』も『鬼滅の刃』もその面白さに首肯していればそれで充分なのだ。

終着駅へ

 日常の隅にひとつ許せない点があるとするなら、それは、漫ろ続く地獄と形容される、ある一種の必然性である。

 如何なる思考において、いかなる手段を持ってしても、どうせ同じ結末を辿るという固着。固執。執拗に求めるでもなく、ただ流れるままに帰途に着くというのは、何か諦観めいた感情とともに出される現実の、現段階の不許容であって、また現実に束縛される遣瀬なさの化身でもあり、ただ、こうして電車に揺られているだけの時間が、以後の生涯においてなんの意味も持たなくなる悲しみは、性質として不可分であり、この夕景の、素知らぬ隣人の温もりも、排外の個人しか許されない空間も、呼吸と瞬きの間隙に潜む憂鬱も、この眠り出だすゆらぎさえも、なんの意味も持たないと言うのなら、この帰途たる人生に何の意味も見いだせないのだろうか。

 焼かれた山、青藍に滲む空、降り来る雲雲の階を呆然と眺めながら感じる、寂しさや悲しみといった感情さえなんの意味も持たない。遣る瀬無い。何事もなせぬ無力感に囚われ自身を失する時間、電車という人と時間とを圧縮する有意性存在の影に、彼らの思いはただの貨物に伍する。もの思わぬ貨物に…

 延々と続く轍を踏めば何処へでも行けるというのに、その匣に囚われ続けることに意味はない。ああ、人生のようなものだ。このまま何処までも行ってしまおうか。

 

無題

 微塵も課題を進める気が起きない。提出期限は二日後に迫る。現実が迫る。いよいよ逃げられなくなる時が来るのに、この五体は動かない。参ったものだ。この期に及んで文章が書けなくなったか。ただ一個、無体な趣味として築いたものが崩れたのか。信じたくない。ヨルシカのことでも書くか。先だってヨルシカのライブ配信があったことでも書くか。それくらいなら、書ける気がする。

 「前世」と題されたライブ。きっと何がしかの意味は含まれるのだろうけど、「負け犬にアンコールはいらない」にそんな楽曲があったことくらいしかわからない。全17曲、繋ぎのイントロを除けば14曲。5枚のアルバムから平等に、ということではなく、人気らしき楽曲を選り抜いているのだろう。故に外さず、磐石の一手が施されたのだろうと個人的には思っている。だからどうということはないし、何ならば善かったというのもない。だから、「前世」と題され「冬眠」に幕を引いた舞台に一個の整合性を見るのも、単なる幻覚に過ぎない。

 それぞれの楽曲は特別なアレンジが施されていた。それは、我が掌中の普遍から逸し、舞台という特殊の場に相応しく飾られた諸々を見ているようで新鮮味、これはある種没現実性の乖離感を得た。俺が普段から親しむ彼らから、親しみだけが除去されたような感覚はどこか淋しげでもあったけれど、ただそれ以上に美しいと思えた。二者のいずれが善いという、そうした邪悪を差し挟む余地もないくらい、瞭然と美しかった。

 前の記事は実はこのことを言っていた。「星辰の許されざるところ」とは可変性であり、この舞台において様の変わった楽曲のことを言った。幾許の時が経った。曲さえ老いるほどの日月を経て、落屑したその質量を許さでは居られず、俺はこの変化を受け容れたのだった。人は違和を泣くけれど、それは悲しみがための落涙ではないのだと知るならば、涙の意味するところが、いつか痩身のすべてを枯らすときまで泣き続けようと思える。

 「言って。」「ヒッチコック」この歌声に、確かな岩盤の摩耗を感じた。あの未熟未分類の声は今や失われていた。あの日、あの人生最後を憂う少年/少女の背は、かつての背高草を既に跨いでいる。光芒を掻き分け、身に落つる影はずっと遠い未来まで伸びているかのようだった。空いた穴の在処も正体も探すことも、最早ない。それに、そうした時の順行の云う成長だとか、あるいは老いだとか云うのに、何故か淋しさを感じずにいられない。きっと、得るものと失うものが等量だったとしても、俺はずっと喪失を、喪失という事象を捨てることはできず、暗澹と淋しいまま、この昏き影を曳航するのだろうと思われた。ゆえに、こうした虚影にも惑わされ続ける。虚偽に嘘を翳し、自家薬籠中の毒に魘され続けるのだ。

 「花緑青と云うのは、毒性の人工染料だ。」

 エイミーの呪詛。エルマの贖罪。穴の空いた泥棒。ヨルシカの全景「前世」。歌は瞬間にしか存在せず、ともすれば、瞬間を失したあらゆる楽曲は、後に死骸を遺すばかり、遺作として、その今際を封印する。ある人間によれば、そうした不変をこそ、「前世」と呼称するのかもしれない。あああるいはこれも、ただの幻覚に過ぎないのか。しかし毒よ、今だけは麗しい幻を見せておくれ。

この星辰の、星霜の、遍く銀河の許すところの、

 この星辰の、星霜の、遍く銀河の許さるされざるところの普遍性、不変性の示す先に、この星辰の、この星霜の、遍く銀河に許しを乞うところの、千千とした変化があったとして、幾許もなく、立ち行かず、万古不易の本質の、敢えし乱れ狂う先の美しさという、煩雑な、猥雑な、咬合の違えた、一種の妥協と称されるべき存在の、終着の、執心の、充たされざる満腔に、空漠と、軽々と、点為す混濁と、ありきたりな不調和と、一時の混迷から来る、あらゆる信条と、あらゆる猜疑の霧散を云うのなら、

 

庶幾、この痩躯凍て果つるまでの生命を歌わんや

穿くのか、穿かないのか。あるいは既に、穿いているか

「パンツって穿いてますか?穿いてませんか?」

そんな愚問はこの世に存在してはいけない。何故なら人間は十全な限り必ずパンツを穿いているのだから。だが敢えて問おう。「お前は、パンツを穿いているか」と。

俺は今パンツを穿いている。このパンツは恐らく半年ほど前にイズミヤで買った二枚組千円のパンツである。従って俺は今一枚五百円のパンツを穿いているのだが、こいつの質もやはり万古不易とは行かず、この頃は大変毛玉が目立つようになってきた。買い替え時である。故にパンツを買いにこの寒天の下を歩かねばならんのであるが、これがなかなか面倒に思える。しかも千円。単体で売られないから千円を出す他ない。千円あればその辺の臭いラーメンを替え玉二杯まで遣れてしまう。パンツ二枚と臭ラー。これらを秤に掛ければどちらに傾くだろうか。俺も人たらんとて道義を重んじればパンツを買うべきなのだろうが、エンドルフィンを考えれば人たることなど簡単に捨ててしまえる性分になった。悩ましい。この期に及んで人たるを喧伝する意味があるか、ただここで諦めてしまえば以後一切ならず者としての道が拓かれてしまう。そのある種の覇道を厭いはしないがそういう状態に拐かされている状態は曖昧で嫌かもしれん。パンツか臭ラーか。人かカスか。悩ましい…そもそもなぜパンツを穿いていないというだけで人後に落とされねばならんのか…うーん分からん。うーん──

最早、眼前にある人間がパンツを穿いているか否かなどということは、一時の思慮に介すこともない、あまりにも当たり前の常識の道徳として存在しているのだから、結局のところ不問に付されるのが世に暗黙の習わしなのである。つまり、パンツを穿いているか否かというのは本人に所在の限られた問題であるからして、道徳をその他世間の人間の目と解する俺にとって、パンツを穿いているか否かという問題は、道徳にお伺いを立てて、その是非を問うまでもない、プライベートな範疇に属するのではないだろうか。その上で、世間が俺の自由を秘匿し、俺を一介の人間と見做し、世間の理法を適用することによって、俺自体はパンツを穿かずとも、他人にとっては非実体のパンツを穿いているということに、世間の見做しによって、即ちなるのではないか。うーん──

これまで22年もパンツを穿いてきたが、パンツを穿く理由はついぞ考えたことがない。なぜパンツを穿いた上にズボンを穿くのか。完全に無駄手間ではないか。パンツかズボンか、その二者なら大は小を兼ねるのであってズボンによるパンツの兼用が可能ではないか。ズボンだけでいいだろ。どうして夏は暑い、冬もなぜかここだけ蒸れて暑いという不快感を押し黙っていなければならないのか。思い返せばパンツは不快感その記憶である。寝る時は脱ぐし家では大概脱ぐし、それも家では万物からの解放を願うために行っているのだ。パンツに対する認識はこのうえなく手枷に近い。世間が人間を人間たらしめるために与う股間の枷、股間枷。股間枷といえば貞操帯。然して貞操を守護られた先に人間の自由は約束されないのであった。南無阿弥陀仏

奇しくも20年間パンツを穿いていた。俺がこの世に性を受けたときには既に非実体のパンツを穿かされていた。パンツを穿かせた助産師はmemeだった。俺という肉体が親からのgeneというのなら、この非実体のパンツはmemeによって齎されたといえる。パンツを穿くという行為は、ただそれを量子不確定の状態を確定させているだけに過ぎない。そんなものを用いずとも、人間はすべからくパンツを穿いているのだから、今更そんなことをする必要はない。現に俺は、対角に座る彼のパンツの存在を認めている。仮に彼が繊維のパンツを穿いていなくとも、俺は思念の糸によって編まれたパンツを目の当たりにするだろう。あるいは、そういった強い、あるいは固着した願望が、その極限にひとつの現実を形成するのだ。故にお前はパンツを穿くだろう。俺というmemeがお前にパンツを穿かせるのだから。

一体何の話だ。そうそう。YouTubeは見るかね。MMDは?MMDなら紳士向けと決まっている。これが一番分かりやすい例えだが、YouTube上のある動画のタイトルがこうなっている。

「【紳士向け】○○がノーパンで踊ってみた!!!」

この時に、そのモデルが果たして本当にノーパンであるか否かなどはまったく問題にならない。つまりだね、肝要なのはノーパンであるという情報と、その情報を専一に盲信する態度なのである。現実的な話、ノーパンだからどうなるという動画はYouTube規約に反するため我々の目には絶対に届かない。あのエンタメ性は、ノーパンであるからどうということではなく、ノーパンであるという所与から自身の手によって演繹するところにある。汝ノーパンたれかし。そう願うことが何より肝要なのであって、俺が「汝パンツ穿くべし」と願われ続ける限り、俺はどんな状況だろうとパンツを穿いていることになる。

故に俺は訊ねるのだ。貴様はパンツを穿いているか、と。穿いてなかったら、クソやばいね。

傲慢の荷車

 『ジョゼと虎と魚たち』を見た。去年の暮れ頃から既に上映していたようだが、見たのは初日の出を迎えてからだった。あっちの友人やこっちの友人と一緒に見に行こうかしらという約束を暗裡に交わしたような気がした。しかし、いつまで経っても水面から顔を出す気配もなく、機ばかり逃しては悔悛すら惜しまれるだろうと思って勝手に一人で見に行ってしまった。彼らはいずれも世情に雁の字であるから、その点も顧慮し単身身軽に赴いたのは一種の合理的判断だと思う。そういった合理性の犠牲として供されるのは不本意だろうけど、それはそもそも諸君らが不確定要素であることがまず悪い。その点は我々の反省点である。

 本題の『ジョゼと虎と魚たち』であるが、これは大変良かった。メアリーの部屋。高慢。痛み。痛みは、ただ俺個人の、独我的な痛み…不肖の俺はバイトの都合で人間の介助をよくする。その点では妙な現実味が流入し、一定の半強制的同情へと促されるのであった。奇しくも、こうした主題にあるから、俺はひとつの願望としてこの世界観を見てしまう。例えば、『こんな夜更けにバナナかよ』に挙がる身障者の傲慢を見た時に、その人間が傲慢に見合うほどに美しければいいのにとか、反対に、美しき人間が、その美しいが故に傲慢であればいいのにとか。結局そういうのは現実にないし、俺が目の当たりにする身障者の傲慢は、融通の死んだ黴のような老人から発せられるのである。その傲慢はいつも身の丈に合わず、俺をただ不快にさせるばかりであった。ただこうして口汚く罵れど、その傲慢の根付いた淵源は我々にとって図り知れるものではない。故にこそ、健常者と身障者の溝は、その可動領域の差以上に広く隔たれているのだ。ついぞ、彼らの心象に思いを馳せたことなどなかった。彼女の傲慢は、彼女の傑出した美しさから生まれいづるものなのか。連中の過剰と言っていい庇護精神は一体何に由来するのか。それは、結局のところ分からない。少なくとも健常であるうちは分からない。俺はずっと、謙虚な人間は昔から謙虚で、傲慢な人間はずっと傲慢なのだと思っていた。だがそれも、どうやら違うような気がする。誰しもとは言わない。きっと始めは謙虚に生きようとした。しかし、それがどうも上手くいかなくなる。いずれ気付くのだ。謙虚にならねばならない理由、その根拠などなく…ただ少し身動きが取りづらいばかりに、この先ずっと、誰かに感謝し、そして一人では何もままならないことを詫び続けなければならない人生とは、きっと苦痛以外の何物でもない。

連中は、そうした居た堪れなさを背負いながら車躯を引いているのかもしれない。